山田涼介(Hey! Say! JUMP)が魅せる「ジェームス・ディーン越え」の演技
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「(55年の映画)『エデンの東』のジェームズ・ディーンと会ったような気がした」
若い人は知らないと思うが、ジェームス・ディーン(1931〜1955)は、それまでの演技術に革命をもたらした俳優と言われる。それは、ニューヨークにある「アクターズ・スタジオ」(多くの名優を輩出している俳優養成所)が提唱したメソード演技というもので、「演じる役柄になりきること」を目指した。
彼の演技法は、「覚えたセリフ」をいったん忘れて、「思い出すように、セリフを喋る」ことだった。これなら、「記憶しているテキスト」を喋っているという違和感を観客が感じることはない。セリフだけではない。リハーサルと同じ動きをしたら「予定調和」になる。そこで、彼は即興的な演技をした。
『エデンの東』ではリハーサルと異なる動きをしたために、彼に照明が当たっていないところがある。しかし、その演技があまりにすばらしかったために、監督はそのテイクを採用した。技術よりも演技を優先させた苦渋の判断だったに違いない。
ジェームス・ディーンは『エデンの東(1955)』『理由なき反抗(1955)』『ジャイアンツ(1956)』の3本の主演作を残して、早世した。伝説の俳優である。
西田は、後輩・高畑淳子に次のように言ったという。
「セリフは道しるべ」
高畑は西田先輩のように演じることは難しいと告白している。セリフを言うのが俳優の仕事だが、セリフを覚えて発声するだけではダメなのである。名優メリル・ストリープも、「映画では、撮影場所がすでに多くを語っているので、俳優がセリフで何かを足そうとすると過剰になる」と発言している。俳優にとって、セリフを言うことはなかなか難しいこと。
2010年に日本テレビで放送された、山田涼介としては初となる主演ドラマ『左目探偵EYE』を見た時に、彼の演技に素晴らしさを感じたことを筆者は過去のブログでも書いている。
このドラマはアイドル路線なので気づく人は少ないと思うが、山田は説明的なセリフを上手くこなし、段取りセリフになりそうなのを上手くすりぬけていた。彼の段取りセリフをすり抜ける技術は巧妙である。
たとえ話をすればこうだ。
店員が「どちらのケーキにしますか?」と、客に聞いたとしよう。普通だったら、少し考える間をとってから、「苺ショートにします」と演技するだろう。しかし、映像演技の場合、考える間はドラマのテンポを低下させるから、編集時にカットされてしまう。
俳優に権限があれば、「そうだなぁ」とか、「ええと・・・」などと合いの手のセリフを入れることもあるだろう。しかし、山田涼介がどういう演技をするかといえば、覚束ない感じで「苺ショート」とセリフを言ってから、何にするかを決心したような形で明確に「にします」というような演技をする。そんなイメージだ。
セリフを言いながら考える。この演技術は、ジェームス・ディーンに遡る。もちろん、その手柄は彼の物ではなく、演出家の手柄かもしれないが、どちらにしても、彼の感性が光った。
「自然にセリフを言う」。その演技に至る道は、「思い出すようにセリフを言う」や「リハーサルでやったことに縛られずに自由に動く」ことによって達成されるばかりではない。「自然にセリフを言う」ために、演技者が「セリフのタイミングを遅らせる」こともある。
もちろん、これら主演俳優だから許されることであって、脇役・端役ではありえない。演技者たち全員が、そのような演技をしたら、撮影現場は収集がつかなくなる。つまり、ジェームス・ディーンの演技は、「主演である映画」という立場に限って許容されたものであり、すべての撮影現場で許されるものではない。そもそも「俳優の自然さ」は、俳優の中の生理ではなく、観客の中の生理なのである。
筆者はまだ映画『ナミヤ雑貨店の奇蹟』を観ていないので、西田が見た山田の演技が実際にどんなものかは分からない。したがって、想像で何かを語るのは避けるべきである。
西田の「ジェームズ・ディーンと会ったような気がした」という表現は俳優・山田涼介の表現者としての最大の賛美なのであろう。しかし、筆者としては、山田涼介の演技は既にジェームス・ディーンを越えているはずだ、と確信している。
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