<フジ月9『海月姫』>マンガの実写化に「マンガの表現手法」を使う愚
高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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東村アキコのマンガ作品『海月姫』(くらげひめ)は傑作である。だが、フジテレビの実写ドラマ化(月9)は駄作である。
その理由の第一は、実写化に当たって、画作りセリフなどにマンガの表現手法を多用しているからである。これほど愚かしいことはない。実写化はマンガの再現ではないのである。
筆者はマンガを原作に使う風潮に対しては、特に否定もしない悪いとも思わない。もちろん、そればかりになってしまえば、テレビドラマがオリジナリティを失う緩慢な自殺にはなってしまうと思う。しかし、うまく作りさえすれば、時に原作マンガを越える作品もなり、原作に対してテレビドラマとして独自性を持つこともできる。
テレビドラマにマンガ原作が多くなったの原因のひとつは、企画を選ぶ編成マンが、まともに企画書を読めなくなったことが大きい。
テレビ局の編成部門には膨大な数のドラマ企画が持ち込まれる。オリジナルの場合、これらの企画書はプロデューサーと脚本家の協力によって練り上げられ、連続ドラマならば1クール(現在は10話が標準)分のあらすじ、キャスティング案が記される。
企画が通れば脚本家がシナリオを書くが、大抵は3話分くらいが完成したところで、撮影に入る。よって、10話分のストーリーが実際にどう展開されるかは分からないことが多い。企画書が読めるというのはその先を想像して読み、ドラマの成否に責任を持つということである。
ひどいケースだとドラマが低視聴率にあえぐと、当初、考えていたストーリーは無残にも変更させられ、良い役どころの人が突然海外に行ってしまって、画面から消えるなどというのもある。
こういったオリジナルドラマに対して、マンガを原作とすれば、先に原作があるのでストーリーが最後まで分かるので、凡庸な編成マンでも安心して判断することができる。
これらを踏まえた上で、マンガの実写化について考える。原作マンガはそのままでは当然ドラマにならない。脚本家が原作に沿って、あるいは原作の肝の所だけを戴いてシナリオに起こす。このシナリオを元に演出家が映像化する。
シナリオにはセリフや設定やト書き、セットのイメージ、効果音などをどう使うが書いてある。いわばドラマの設計図である。ただし、この設計図があれば、皆同じものになるというものではない。役者がセリフの言い方を考え、演出家が演技の要望を出し、カメラマンが画作りをし、効果マンが音楽を付け、美術のデザイナーがセットを作る。
演出家がこれらのチームの総責任者ではあるが、すべて演出家の独裁的な思い通りにつくるわけではない。いいチームであればあるほど、そこには役者やスタイリストや参加する者のアイディアが取り入れられる。これらの工夫の積み重ねでドラマは出来る。
だから、設計図を書く脚本家はセリフに、例えば「(グッと詰まって)そうか」というセリフを書こうかためらったり、悩んだりする。「グッと詰まって」セリフを言うかどうかは役者の工夫に任せた方が良いのではないか。「グッと詰まって」と書くのは越権行為で役者の演技を狭めるのではないか。
でも、役者には「グッと詰まって」言って欲しい。迷いに迷って「っっっそうか」などというセリフをひねり出したりするのである。
一方、マンガは作者(漫画家)のひとり舞台である。ネーム(ストーリー)を考え、コマ割を考え、ネームを表現するための画を考える。この多くを真似てしまったら実写化の意味はまったくないと言うことである。そして、それがフジの月9ドラマ『海月姫』なのである。
繰り返し言うが、マンガのドラマ実写化は再現ではない。再現と言う言葉を使うならば、再現に値するすぐれたシナリオが用意されるべきである。筆者これまでに傑作だと思うマンガの実写化を数多く見てきたが、特に2つの作品を挙げておく。
竹中直人監督・主演により映画化された、つげ義春のマンガ『無能の人』。松岡錠司監督・脚本、高岡早紀、筒井道隆主演により映画化された、望月峯太郎のマンガ『バタアシ金魚』。
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