テレビは「何かが起こっているから観る」のではなく「何かが起こりそうだから観る」
高橋秀樹[放送作家]
2014年3月28日
「テレビは、何かが起こっているから観るのではない。
何かが起こりそうだから観つづけるのである」(萩本欽一)
これは、私の師・萩本欽一の受け売りである。名言ではないか。うまいこと言うもんだ。そのとおりである。
たとえば、みのもんたという司会者を思い浮かべてみるとよい。スタッフにとってみのもんたは、何を言い出すかわからない危険な司会者である。発言のコントロールが求められる。報道局から借りてきた素材をワイドショウ側が、一編の見世物につくりあげて放送する。するとみのは、「襲われた女性のほうにも隙があったのではないですかねえ」と言う類の発言をしかねない。
それは視聴者の何割かが同じく思う感想でもあるのだが、「建前と正義」で出来ているテレビでは言ってはいけない感想でもある。「隙があっても襲ってはいけない」のが法律だからである。報道局からは当然大目玉を食らい、視聴者センターの電話は鳴り通しになる。
ところが、テレビを観るほうは、そんな事情には関係がない。みのもんたが何かを言ってしまうかもしれない。つまり「何かが起こりそうだから番組を観つづけるのである」
『オールスター感謝祭』と言う5時間を越すクイズ番組の中で、30分間の休憩時間を設けた。200人の芸能人がいっせいにスタジオ外に設営された屋台に食事を食べに行った。カメラは、実況も何もすることなく、食事をする芸能人を、ただただ写し続けた。芸能人がしゃべっている声も積極的にはとろうとしない。ノイズとして聞こえるだけである。それが30分つづく。
ある程度勝算はあったが、翌日、視聴率の折れ線グラフを見て驚いた。下がらないどころか上がっているではないか。
「何も起こっていない」にも関わらず「何かが起こりそう」
だから、番組を観つづけてくれた」のである。
欲をかいて、次の回での休憩時間は芸能人の音声をクリアに取れるようにして、おまけに声を聞くためにリポーターまで動員した。当然、失敗だった。視聴率は下がっていた。「何かが起こりそうだ感」が、作為的な行為をしてしまったために減ってしまったのである。
「人質をとっての立ちこもり事件中継」の関心などは、窓しか写っていなくても極めて高いのだ。