国籍・分野の異なる11人のダンサーと5人のミュージシャン!が織りなす舞台『バベル』の驚異の世界

映画・舞台・音楽

熊谷信也[新赤坂BLITZ初代支配人]
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◆舞台『バベル BABEL(words)』公式サイト

2014/8/29(金)~8/31(日)@東急シアターオーブ

今年一番の衝撃。
見たものにしか分からないかも知れない。このパフォーマンスを何と表現すればいいのだろう。ダンスパフォーマンス、コンテンポラリーダンスと言うにはあまりに懐が広すぎる。かと言って演劇的ではあるが演劇ではない。
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くどいようですが見た人にしかこの衝撃は分からないかもしれない。残念ながら文章でもテレビでもうまく伝え切れていないと思う。“Seeing is believing”(百聞は一見にしかず)
音楽を例にとってみる。
国籍も違う、民族も違う5人のミュージシャン。中世イタリア音楽を専門とする音楽家2名、インドのタブラ、ハーモニウム(手動フイゴオルガン)奏者2名、日本は佐渡の鼓童出身太鼓奏者1人で構成され、それぞれ楽器演奏以外に5人全員が歌う。これだけ聞いても、さらにどんな音楽を奏でるのか想像は困難。「無国籍でカッコいい!」と言う表現も的を得ていない。
音楽の主体は何? と問われても困る。
グレゴリウス聖歌、アラブ音楽、ヒンドゥー音楽、そして和太鼓、日本の木遣(きやり)あり。多種多様な「音楽」は特筆するくらい素晴らしく美しい。精密さと静謐さを持ち合わせながら、太鼓のビートによる力強いエネルギーにも満ちている。
日本人で今回の「バベル」初期からのメンバー、元鼓童の吉井盛悟はインタビューでこう語っている。

『音楽は国境を越える! とよく言われますが意外とそうではありません。
お互いの文化に踏み込んで作れば作るほど逆に壁にぶつかることになります。例えばバイキング形式の食事でカレーとピザと寿司を同時に食べることはありますが、カレー、ピザ、寿司を混ぜたものを食べるのは少し気が引けます。
しかし、それぞれの材料レベルまで分解して考えると別の料理をつくることができます。つまり多国籍音楽を作るときというのはその材料レベルまで誰が分解して組み立てるのかが鍵になります。通常は「音楽監督」を立てますがこのバベルはそれを立てずみんなでああだこうだ言いながら作りました。正直、それが大変でした。
イタリア勢とインド勢の意見の食い違いはもちろんあります。その間を、何となく日本的に取り持つのが私の役割だったようにも思います。これは「音楽作品」というより、ある意味「プロジェクト」だったと思います。「バベルの塔の再建はなかなか容易ではない」と実感した瞬間でもありました。そのように作り上げた音楽なのでそれぞれが受動的でなく能動的な関わり方をしていてとても生き生きした新しい音楽だと思っています。それぞれの血が通った音楽を聴いて頂けたら嬉しく思います』

音楽一つとってもそうであるように、ダンスも芝居も多義的でありジャンルの幅が広く簡単な説明を拒んでいる。容易に書こうとすると足下をすくわれる。頑張ってあえて私流に言わせてもらえれば「生物多様性パフォーマンス」とでもいうのか。
地球上の生物は小さな目に見えない微生物から巨大な哺乳類に至るまで、あらゆる生命が全て関連し合いながら共存している。そのどれか一つが欠けても地球のバランスは壊れる。今回の「バベル」とはそのようなメッセージにも聴こえる。
しかし、それでも全然、説明になっていない? こんな説明を繰り返していると、この「バベル」は壮大な実験的舞台と思うかもしれませんね。しかし、イギリスの舞台芸術で最高と言われるローレンス・オリヴィエ賞を2部門受賞し、かつロシアで最高のバレエに贈られるなんとブノワ賞最優秀振付賞まで受賞している。これはバレエ界からの評価。バレエ。なんたることか。ますます、この作品、言葉ではわからない。
尚、この作品のセレクトは札幌国際芸術祭2014ゲストディレクターである、かの坂本龍一氏。自ら選定し東京でも絶対上演すべきとの氏の強い希望から公演が実現。氏は現在、癌と戦っているため札幌、東京には来られず、残念だけれども、この作品を見られたことに心から感謝の意を表します。
演出はコンテンポラリー・ダンス界に圧倒的な存在感を示す振付師 Sidi Larbi Cherkaoui(シディ・ラルビ・シェルカウイ)映画「アンナ・カレーニナ」(監督ジョー・ライト)。キーラナイト・レイとジュード・ロウの舞踏会でのダンスの振付も彼である。このダンス・シーンは後世に残ります。絶対。
そして、もう一人の演出家Damien Jalet(ダミアン・ジャレ)。彼の茶目っ気が至る所に笑いを醸し出しているのは間違いない。
そもそも「バベル」とは旧約聖書の「バベルの塔」に由来。旧約聖書によれば、人間はたった一つの言語を話していた。しかし、神は「空に届けとばかりに豪語して塔を建てた人間のおごり」に対して罰を与えた。その罰がコミュニケーションの遮断。ここに神は複数の言語を作り人間の意思疎通をできなくした。
彫刻家アントニー・ゴームリーによる5つの大きな直方体フレームの舞台装置が、パフォーマーたちによって次々とフォーメーションを変え、領土、陣地、自室、リングなど、自と他を分かつ見えない壁や境界となる。
「バベル」の出演者とミュージシャンを他国籍化、他民族化することによって、創作過程では相当なる苦しみ、もがき、戦い、涙があったはず。その結果、予定調和では決して生まれないものが出来た。時間をかけた試行錯誤の結果、考えあぐねた先の先にぽっかりと、これ以上分解できない自分らのルーツを最後に探し当てたような。そんな素晴らしい経験を何度も体験させてくれる舞台が完成した。
付け加えておきますが、このステージを見ているときに「こんな理屈」はいりません。筆者は、解説を書こうとするから今、考えているだけです。ダンサー11人。国籍の違う人々による斬新なアプローチ、笑いも恋愛もあり、コミュニケーションの難しさの問題提起もします。
インターナショナル・コミュニケーション・ツールの中心は英語だとするアメリカ人の言語の優位性をすぐさま、否定もしています。痛快。今回、アメリカ政治批判も日本の漫画ガンダムを使ってしてしまっています。
結局、肉体は言語を圧倒的に凌駕する。私にはそう映りました。哺乳類の特徴は放っておいても身体と身体を触れ合い密着させること。一人では寂しいからパートナーを探すこと。肌と肌を接触させたい。その特性こそが言語を超える原動力。だからこそ言葉を尽くすより、手と手を重ね合わせることがより深いコミュニケーションだと「バベル」は語りかけているような気がします。
エンディングで、吉井盛悟がソロでわらべ歌のようなやさしいメロディを胡弓で演奏します。それを背中で聞きつつ、ダンサー達は、「それぞれのフレーム」へ帰っていきます。目頭がジワーッと熱くなった瞬間でした。
 
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