<政治とは「まつりごと(祭り事)」である>争点というエンターテインメントなき選挙は盛り上がらない

政治経済

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

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選挙で「投票に行かない」のは「貸してある金はもういらない」といっているのと同じだと、筆者は思う。
なぜならば、有権者は「税金という形で多額の債権を政治家に貸し付けていると見なす」ことができるからだ。預けた「税金は違うことに使ってくれ、あなたにはもう貸さない」という異議申し立てが選挙であるとも言える。
つまり、投票の棄権はデフォルト (債務不履行)の状態でいいと有権者が認めたことと同じだ。本来履行されるべき債務が履行されなくなること(支払われるべき金が支払われない等)、例えば、国、政府、都道府県庁、各自治体などが有権者に利払いや元本の償還を行わなくてもいいと、認めたことである。
4月12日に行われた統一地方選挙が全く盛り上がらない。
与野党対決型となった北海道と大分県を含め、10道県すべてで現職知事候補が当選する結果となった。10知事選の平均投票率は47.14%と過去最低だった2003年(52.63%)を大きく下回り、初めて5割を下回る結果となった。
このうち、自民党と民主党の相乗りとなったのは、神奈川県、福井県、奈良県、鳥取県、福岡県の5県。
かつて、政党は当該政党を選び取った国民の代表だったが、与野党が相乗りされては、政党は今や、政権の代表に成り下がったと判断するしかない。代議制民主主義の崩壊である。
有権者としては、これまで、金を貸している相手だった与党から、野党に貸し変えたいと思っても、できない。何かの陰謀なのではないかと勘ぐりたくもなる。豊富な資金を持つ一端にぶら下がって絶大な権力を持つ一味にぶらさがっていたいという政治家のゲスな心も透けて見える。
なぜ選挙が盛り上がらないのか。メディアは争点がない、対立軸がないと報じる。沖縄にはあったそれがないと。果たしてそうか。メディアはきりきりと調査して争点をあらわにすることが仕事なのに、それを怠けているのではないか。メディアでさえ勝ち馬に乗ろうとしているのではないか。
筆者は先日、愛媛県の新居浜市にいたが、地元の新聞やテレビからその様子をうかがうことができなかった。別子銅山の閉山以後、衰退する地元経済。
街の真ん中はシャッター商店街で、その代わりに街の郊外には巨大なイオンモール。地方再生が叫ばれる中、街がこれ以上衰退しないようにするにはどうするか、争点はちゃんとあるではないかと、県議選のポスターを見ながら、よそ者の筆者は思う。
テレビメディアは若者になぜ選挙に行かないかを問う。

「僕一人が、私一人が選挙に行っても何も変わらないと思うから」

という、ありきたりの街頭録音を何の考えもなしに垂れ流すだけだ。民度が低い、横並びで大学に行ってどうするといった感想を抱くだけである。メディアはそんな取材をしてアリバイづくりをしている暇があるなら県政の争点を必死になって調べるべきではないのか。
政治には争点というエンターテインメント性がないと盛り上がらないことは必定だろう。まつりごとなのである、お祭りなのである。筆者も大好きなお金の貸し借りを巡るエンターテインメントショウなのである。エンターテインメント性を作るのはテレビの十八番ではないのか。
整理回収機構なら法に則って情け容赦なく、「ナニワ金融道」や「闇金ウシジマくん」なら荒技を使っても、江戸時代の農民ならむしろ旗を揚げた百姓一揆で借金の回収をはかったはずなのに。
平成の時代はなぜこんなに人々はおとなしいのだろう、投票権という何ものよりも強い武器を持っているのに。
 
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