ジャン=ミシェル・バスキアの絵画をサザビーズオークションで123億円の高額で落札した事でも世間を賑わせたZOZO前澤友作社長が、今度は所有するアート作品アンディ・ウォーホル「FLOWERS」、エド・ルシェ「BONES IN MOTION」をオークションに出品し、予想価格を大幅に上回る8億8000万円で落札された。
前澤氏がこの絵画をいくらで手に入れたかは不明だが、入手時より高額で売却できたことは予想に難くない。なぜなら前澤氏は、単にアートが好きというだけではなく、オークションにかければ値が上がる絵画を目利きし、投機の目的で所有しているとも言われているからだ。「好きな絵画を買って、資金に困ったら売却して、収益まで上げる」、これからの時代の、絵画との新しい関わりを例示しているようだ。
「アートの売買など大金持ちの娯楽。一般人には関係ない」と思う人も多いと思うが、実はそうではない時代が到来している。前澤氏のように、投資の一つとしてアート作品を売買し、所有するという考え方だ。
ただ、一般的な庶民の感覚ではなかなか理解は難しい。1980年代にイルカの絵で一世を風靡したクリスチャンラッセンなどのインテリアートは、高額なローンを組んで購入したものの、いざ売却しようとすれば二束三文・・・。アートの投資なんてそんなに甘いものではない、と骨身にしみているからだ。アートなどは所詮、金持ちの道楽、富裕層の娯楽に過ぎないのではないか。
そんな中、オンラインギャラリー経営の徳光健治氏の新刊『教養としてのアート 投資としてのアート』(クロスメディア・パブリッシング)はタイムリーな好著だ。
徳光氏は、現在のアートマーケットは、プライマリー(ギャラリーで販売している作品)、セカンダリー(オークションで売買される作品)は連携を取るべきであり、きちんとした作品を、きちんとしたギャラリーから購入すれば、価格が落ちにくい仕組みが出来あがっているという前提に基づき、「金持ちの娯楽」ではなく「庶民の投資」としてのアートについてわかりやすく解説している。
値段が上がるアートには明確なロジックが存在するという。
筆者はこれまで、放送作家として数々のアート番組を手がけてきた。しかし、思い返してみれば、その全てが「アートバラエティ」であり、「芸術エンターテインメント」の番組ばかりであった。
もちろん、これは筆者の好みや趣味で企画してきたわけではない。むしろ、テレビ局や社会からの要請であり、ニーズであったわけだ。しかし、こういった風潮はもう、今の日本にはないのだろう。アートがエンターテインメントから投資の対象としてシフトしていることは、日々のアート関連のニュースを見ているとひしひしと感じる。
今、筆者がアート番組を企画してくれと依頼されれば、間違いなく投資番組のアイデアを出すだろう。
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「アートの購入」をイメージすると、なんとなく入りづらいギャラリーの雰囲気に、一見さんには厳しそうなムードなどが頭に浮かぶかもしれない。展示しているアート作品に価格が表記されていないことも多く、客にも関わらず「入ってもイイのかな?」と思っている人も多いだろう。価格を聞いたいけど、購入意思がなければ冷やかしと思われてしまうのではないか・・・と聞きにくいケースもあるだろう。
そういったアート業界の敷居の高さが目立つ一方で、世界のアートマーケットは拡大を続けている。日本にいるとアート市場が拡大していることはなかなか実感しにくいが、世界で8兆円とも言われるアート市場は、米国や英国、中国などに行くとそのアート熱の高さが実感できる。日本人作家にも、草間彌生、奈良美智、村上隆など、驚くほど高値となっているものも少なくない。
もちろん、それはアートの専門家だけの話ではない。スイスで開催されるアートバーゼルというアートフェアでは、世界中のセレブが自家用ジェットでアート作品を買いに来るという現象が当たり前となっている。これはお金に限った話ではないのだが、富裕層にとっては、アートは小難しく考えるものではなく、意外と身近な存在になっている。
最近では、2017年にZOZOの前澤友作氏が123億円でジャン=ミシェル・バスキアの作品を購入したことは記憶に新しい。前澤氏のバスキア購入が話題となってマーケット全体の相場を押し上げ、戦後生まれのアーティストの中でバスキアの年間オークション落札額はダントツの1位となっている。メディアで目にする前澤氏といえば「アートで散財している金持ち」というイメージであるが、その実態は資産運用としても成功しており、彼の買い方はオークションの相場を動かす原動力にまで発展している。
日本国内でも、富裕層だけでなく若手起業家やアッパーミドルの一般層にも趣味としてだけでなく、資産価値を含め、色々な面からアート購入への関心が高まっている。先週開催されたアートフェア東京も来場者が6万人を超え、売上も36億円に達したと言われている。ここに来て遅れていた日本のアートマーケットにもようやく火が付き始めたと言われる。
日本のアートマーケットは若手起業家などを中心に盛り上がっているためか、現代アート作品を中心に、ネット売買などが盛んだ。従来の「大富豪が天文学的な金額のゴッホやピカソの絵をオークションで落札」といったイメージからすると、非常にスマートだ。
しかし、その一方で、信頼性などの点から、ネットでのアート売買への障壁は高い。そもそもネットのアートマーケットはできて間もないので、アートの専門性や知識・信頼性を持った企業が少ないからだ。いかに楽だからといっても、真偽も定かでないアート作品をネット通販で気軽には購入することに躊躇するのは当然だ。
日本におけるアートのオンライン販売業界の老舗として15年前から現代アートの販売を手がける「Gallery TAGBOAT」の株式会社タグボート(東京都中央区)・徳光健治社長は次のように述べる。
「急速に成長している日本の現代アートのオンライン販売は、そのやりやすさや情報の速さなどから、アート市場への敷居を大きく引き下げてくれました。しかし、新しい市場であるだけに、信頼性のおける企業は多いとは言えません。専門知識と高い信頼性、十分な在庫を持って運営している企業は数えるほどしかありません。手前味噌かもしれませんが、私ども株式会社タグボートはおそらく日本のアートのネット販売の代名詞と言われ、ウェブ上に2万点以上の取り扱い作品があります。これは現代アートのネット販売では国内でダントツのシェアで、アジアでも最大級の規模です。このように、海外のアート市場におけるエージェントにも見劣りがしないようなオンライン売買ができるのは弊社だけといっても過言ではありません。他は取り扱い作品の質や量において十分でないところが多いのです。これは弊社としては嬉しい話のように見えますが、市場全体で見れば、ちょっと残念なことです。」(徳光健治氏)
国内の現代アートのオンライン販売で圧倒的なシェアを誇るタグボート社ではあるが、自社の利益だけでなく、日本の市場自体をもっと大きくしなければならないという。そのためには、アート業界が一丸となって市場を盛り上げ、周知させてゆくことが何よりも重要であるという。
例えば、そのための試みの一つとしてタグボート社では、オンラインギャラリーから飛び出して、銀座の阪急メンズ東京に実店舗のギャラリースペースを3月15日にオープンする。これは、新しい顧客層の開拓のために、リアルの店舗とオンラインの世界をつなぐ新しい購入体験を提供するためには今後重要になってくる、と徳光社長は力説する。
確か美に、実店舗とオンラインギャラリーの2つのチャネルを結合することで、どの販売ルートからも同じように作品を購入できるマルチチャネル体制を構築でき、その結果、現代アートをギャラリーで見た後でオンライン上でも手軽に購入するといった新しい購入体験ができる場を作ることができれば、アート購入の敷居の引き下げは加速するように思う。
日本でも、アートがもっと身近になると同時に、オンラインの世界でアートの売買を当たり前になる時代がもう間近まで来ているのかもしれない。
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安達元一[放送作家]
・・・
最近、テレビ業界でもパクリにはナイーブになっています。
テレビがネットに脅威を持ち始める以前(ほんの数年前です)であれば、テレビ番組制作でパクリは常套手段というか、ひとつの手法でした。まったく同じものを作ることはさすがにありませんが、似て非なる企画、エッセンスだけ抜き出した企画、などもオマージュという言葉で許されていた時代でした。パクる方もパクられる方も、テレビづくりにパクりはつきものという感覚があり、無許可で素材を流用するようなもの(いわゆる著作権侵害)でもない限り、細かいことをガタガタと言わないものでした。
しかし、今日の状況は大きく異なります。パクリは許されず、少しでも類似があれば「パクリだ」「盗作だ」と騒がれます。たとえそれが違法なものでなくても、社会的に断罪されたり、出演者までが謝罪することも珍しくありません。テレビに限った話ではないかもしれませんが、クリエイティブに関わるあらゆる業界の人は、今、パクリには慎重です。あらゆるコンテンツが、世に出された瞬間に、ネット民たちの粗探しにあうからでしょう。テレビ局のような発注元も、納品されたコンテンツに不正がないか、調査にはエネルギーを使います。
そんな中、先日発売された藤本貴之著『パクリの技法』(https://amzn.to/2Dtnesa)は、業界人であれば、絶対に気になる本だろうな、と思わされた一冊です。タイトルだけを見ると「盗作の指南書」のようですが、その内容は逆で、「楽をしようと思ってパクっても絶対バレる」ということが、ロジカルに説明されています。逆に「パクリとは技術であって、悪いことではない」ということが本書に一貫したメッセージです。いろいろなパクリの事例(良い意味でも悪い意味でも)から「パクリとは何か」ということを明らかにしてゆくあたりは圧巻です。
今日、何か似ているモノがあれば「パクリ、パクリ」とすぐにネットで騒がれます。しかし、全てのパクリが悪いわけでも、批判の対象になっているわけではありません。例えば、憧れやリスペクトの気持ちから、似てしまうことはあります。意図的に似せるということすらあります。このような場合、よほどでなければ批判されることはありませんし、むしろ裏話、面白エピソードとして語り継がれています。
一方で、些細なパクリであっても、パクったことを否定したり、あたかも自分のオリジナルであるかのように見せるような場合は、必ずと言って良いほど炎上し、批判されてしまします。そこから展開して、作品とは無関係な部分の粗探しや、時に人格否定にまで至ることすらあります。
つまり、パクリには「許されるパクリ」と「許されないパクリ」がある、と言い換えることができるのかもしれません。本書『パクリの技法』で言及されるエピソードでも、その違いがどこにあるのか? についても詳しく分析されています。「なるほどな」と思わず納得させられるとともに、自分が関わった作品を思い起こして、考えさせられるページもありました。あれは「許されるパクリ」の範囲を逸脱していなかったか・・・。
『パクリの技法』でも詳述されていますが、スタジオジブリのアニメ作品には、宮崎駿監督が影響を受けたり、参考にしたと思われる「過去の作品」からのパクリがさまざまに登場します。代表作である「風の谷のナウシカ」や「天空の城ラピュタ」、そして名言「バルス!」すらそうです。しかし、その事実は隠されていることでも、宮崎監督本人が否定していることでもありません。もちろん「世界のミヤザキ」の評価がそれによって下がることもありません。
一方で、些細なパクリから、大きな問題へと発展しているような事例は近年、非常に増えています。例えば、東京オリンピックの公式エンブレムの問題などは記憶に新しいかもしれません。他にも女子高生社長として有名だった人物(現在は女子大生社長)が、自らの会社で制作した商用ホームページで、デザインだけでなく、ソースコードまでも他の商用サイトから丸パクリをする、という事件がありました。もちろん、彼女が著名人であったということもありますが、非常に厳しい批判を受けました。あまり詳細に書くと『パクリの技法』のネタバレになってしまうので控えますが、これは「著名人による最悪なパクリの事例」として紹介されていますので、興味のある方はぜひ、ご一読ください。勉強になります。
「似ている」という現象に対して、私たちは「パクリ」というひとことで簡単に表現してしまいがちですが、実は、それが意味することは異なり、様々です。作家が他人の文章を盗用することはいけないパクリですが、ファッション雑誌を見て、読者がモデルの真似をすることだって問題ないですがパクリなのです。
この違いがみなさん、わかりますか?
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5月4日、大阪市で行われた将棋新人王戦3回戦で、横山大樹アマに勝利して16連勝と記録を伸ばした藤井聡太4段。
今や時の人となった中学生棋士であるが、その天才と呼ばれる頭脳は、どのように作られたのだろうか? 紐解いてみると、そこには私たちの子育てにも役立つ秘訣が見えてくる。
2002年、愛知県瀬戸市に生まれた藤井少年。父はサラリーマン、母は専業主婦、そして4才年上の兄、家族誰もが将棋の世界とは無縁な、ごく普通の一家。藤井君はインタビューで「母親と一緒に奨励会(関西将棋会館)に行く2人分の新幹線代がもったいない」と言っていたように、特に裕福な家庭でもなかったよう。
裕福な家庭、特種な家庭で特別な教育環境があったわけではない藤井家。ちょっとした接し方、物の言い方、考え方を変えることで、私たち一般人の子供も、藤井君のような天才に育つ可能性は十分にありそうだ。
ごく普通の家庭から、なぜ天才が育ったのか? その幼少期のエピソードから探ってみたい。
藤井君が将棋を始めたのは5歳。祖母が持ってきた「スタディ将棋」という、子供には難しい将棋の駒の漢字を、動き方が矢印で書いてありわかりやすく遊べるという玩具がきっかけだと言う。
この「スタディ将棋」に藤井君は興味を示し、飽きずに祖母と遊んだという。ちなみに、藤井君の祖母は、この玩具を親戚や、他の子供たちにも与えてみたそうだが、関心を持ったのは彼だけだったという。
さらに幼少期の藤井君が、高い興味を持ったのが、親が買い与えてみた「キュボロ」という、積み木を組み立てビー玉を転がして遊ぶ立体パズル。これに熱中し、飽きずに1日中遊んでいた。
ここまでで推察されるのが、子供を天才に育てるには「可能性を与える」のが大切ではないかということだ。将棋玩具も、立体パズルも、興味を持つかどうかわからないがやらせてみる。その子の中に潜む「興味のスイッチ」を、いかに刺激できるかを試行錯誤するのが、天才を育てるひとつの要因と思われる。
ちなみに藤井君の小学生時代の文集には、「最近関心があること」として「将棋、読書、電王戦の結果、尖閣諸島問題、南海トラフ地震、名人戦の結果、原発」と書かれている。親が広く興味の選択肢を与えたであろう様子が見て取れる。
確かに子育てにおいて、日々の忙しさに追われ、「それダメ!」と頭ごなしに否定しまうことがある。さらにはダメな理由も説明せず、子供の挑戦の可能性を摘んでしまうことも少なくない。
子供はまだ未熟であるがゆえに、私たち大人のように理路整然と考えていない。思考も大人のようなロジカルな回路とは違い、常にあちこちに拡散している。それを大人に合わせるようにキレイにまとめようとするのは親のエゴであり、「罪」である。
疑問の固まりである子供に、何かを質問されたとき「忙しいから後で」と取り合わないのは論外であるが、つい面倒臭くなり、答えをすぐ教えてしまうのも、子供が天才に育つ芽を摘んでいる。「なぜだと思う? 考えを聞かせて? この本でちょっと調べてごらん」と、「考えるクセ」を与えるべきである。
藤井君が遊んだ将棋もパズルも、正解という答えがなく、いつまでも考えづけられることが出来たのがよかったのだろう。
天才・藤井4段と比べるべくもないが、筆者のような放送作家も多少の能力が求められる職業である。その根源となっているのが「可能性を広げる」ことである。
テレビの現実や、予算や、ルールに縛られ、アイデアがシュリンク(縮小)してしまいがちの現場で、「こんな可能性もあるよ、こんな事だって選択肢に入れてみよう、現実味はないけどこんなバカな考え方だって出来るよ」と、とにかくスタッフ一同の脳を活性化させる。それにより収束しがちな思考では思いもつかなかった可能性を、制約を取り払って拡散させてみることにより、新たの答えを見つけ出すのが私たちの仕事なのだ。
最後に、子供を天才に育てる秘訣を母親のインタビューから見つけた。
「月に2回、名古屋から新幹線に乗って大阪の関西将棋連盟に通っていました。朝4時半に起きて朝食の準備をして、5時に聡太に食べさせて……。8時には将棋会館に到着するように、5時半には自宅を出発していました」
奨励会で6連敗したときには、
「会館の中では悔しさを胸の内におさめていたんだと思いますが、私と一緒に会館を出たとたんに、もう大泣き。自信を失っていたんだと思います。でも、私は、聡太の気が済むまで黙って見守るしかありません。それでも一緒に悲しんでいるつもりなんですが、聡太は『お母さん、ボクが負けると機嫌悪いよね』って言うんですよ(苦笑)」
つまり、「寄り添う」ということなのだ。
親の気持ちというのは、言葉で伝えるばかりではない。いやむしろ言葉以外、寄り添う態度で伝える事が重要なようだ。「なにがあってもこの親は私を応援してくれる、守ってくれる」という無償の安心感を伝えることが、子供を天才に育てるのではないだろうか。(その他、浅田真央、福原愛などを天才を天才たらしめた伝え方などを、拙著「人もお金も引き寄せる伝え方の魔法」http://amzn.to/2khGmmk で紹介しています。ご参照ください。)
また、藤井4段の母親はこんな言葉も残している。
「プロは厳しい世界。最年少だからといって、勝てる保証はありません。でも、本人が選んだ道だから、私は応援するだけ。聡太が勝つ姿が見たいです」
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稲田朋美防衛大臣の発言が物議を醸し出している。国会も、マスコミも、世間も、稲田大臣をなにやら嘘つきの悪者のように連日扱っている。
「記憶にない」というフレーズは、政治家が言動をごまかすための常套句のようにばかり映るが、はたしてそうと言い切れるのか。この観点から筆者の体験から稲田大臣を擁護してみたい。
3月15日の参院予算委員会での発言。森友学園の訴訟への関与を否定した国会答弁、その後撤回したことに関し、
「私としては自らの記憶に基づいて答弁した。虚偽の答弁をしたとの認識はない」
と述べた。「記憶にない」は、最近よく耳にするフレーズだ。例えば、元東京都知事・石原慎太郎氏の3月3日の記者会見でも、豊洲市場問題で「盛り土が行われなかった経緯は記憶にない」と発言があった。
さかのぼれば「記憶にない」は、1976年、小佐野賢治氏がロッキード社幹部との関係について「記憶にございません」を連発した「ロッキード事件」が有名だ。この年「記憶にございません」は流行語にもなった。
そもそも「記憶にない」は、アメリカが本家のようだ。「I don’t have any recollection about that」という言い方は、アメリカでは議会の証人喚問のほか、偽証罪に問われる危険がある裁判でよく使われているという。
さて、この「記憶にない」だが、多くの人が「マズイことを隠しているだけだ、言い逃れだ」と思うだろう。さらに、
「記憶がなければ、過去にやったことでも『やっていない』と言ってもウソにはならないのか?」
「では記憶がないなら、何をやっても許されるのか」
などと批判が増幅しそうな危険なフレーズでもある。
しかし、「この記憶にない」は言い逃れのためだけのセリフとは言い切れない。なぜなら、実際、筆者は25年の放送作家生活の中で、「この記憶にない」を実体験として経験したことがあるからだ。
1993年、筆者が企画書を作って始まった『発明将軍ダウンタウン』(日本テレビ系列)という番組がある。素人発明家の様々な発明品を品評したり、「知恵姫」という生活の裏ワザを紹介したりと、様々な企画をお送りしたのを記憶している。
そして、この番組が1996年からリニューアルされ、番組名も『ひらめけ!発明大将軍』となり、研ナオコさん・今田耕司さん・東野幸治さんに、なったそうである。
・・・「なったそう」という憶測的な書き方をしたには理由がある。もちろん筆者も放送作家として参加していた当事者でるのだが、この記憶がまったくないのである。
実はこの頃、筆者は「クモ膜下出血」という、脳の血管が破裂する病気にかかり開頭手術をし、生死をさまよっている。わかりやすく言えば、頭を開けられて、脳をいじられているのだ。
その影響だと思うのだか、局所的な記憶がいくつか、本当になくなっているのである。収録現場にも常に行って、放送まで毎週作業をしていた事が、この番組に関してまったく思い出せないのだ。(他にも、忘れてしまっている担当番組があるかもしれないが、「記憶がない」ので忘れたことさえ忘れているはずだ)
この様に「記憶にない」という状況は、本当に起こることなのである。
筆者も稲田大臣の「記憶にない」は、「ウソだよ、誤魔化しだよ」と最初は憤りを感じた。しかし自身の体験をふと思い出して、一概に否定するのは短絡的かなと思いとどまった次第だ。
実際に石原慎太郎氏は2013年に脳梗塞を患っている。ちなみに稲田大臣の病歴では脳疾患は確認できないが・・・。
自分の思うこと・考えることを盲信して、それと相容れない発言・考え方をする人を、頭ごなしに否定するのは、これこそ紛争の始まりだと思う。今回の稲田大臣騒動を見て、夫婦関係、人間関係、そして国際関係まで、相手の意見を一度受け止めてみる、多様性の容認を試みてみるのは、大切なことではないだろうかと気付かされた。
それにしても稲田大臣の発言・伝え方は、あまり褒められたものではない。
森友学園の籠池氏と最後に会った時期についても、稲田氏は「ここ10年来はお会いしていない」と主張している。しかし、籠池氏の妻・諄子氏の、
「2年前にですね、園長会議が自民党であった時にですね、いましたよ。私はあの人嫌いだから話ししてないんですけど、園長は話ししてましたよ(中略)ほんまに、おにゃんこちゃんですよ」
という発言に対して、15日の参院予算委員会で「奥様らしいなぁと思いますが・・・」と答弁しているという。
野党から「よく知ってるんじゃないか」とヤジが飛び、稲田氏が「申し訳ありません」と謝るシーンもあった。
そう考えると、「記憶にない」という現象自体は筆者の実体験として否定しないものの、稲田大臣の問題はそれ以外の部分にあるのだな、と感じてしまった。
現在、筆者が関心をもってることは、あらゆる問題や現象において「言葉の伝え方ひとつで、人の信頼と価値を変える」という事実だ。2〜3年前、『伝え方が9割』(佐々木圭一)という本がベストセラーになったが、このことに興味をもっている人は多い。
先日、筆者も著書『人もお金も引き寄せる伝え方の魔法』を上梓し、様々な事例を挙げて「言葉の伝え方」について分析をしてみたが、読者からのリアクションが予想以上に大きく、正直、驚かされている。誰もが「伝え方」に飢えているのだ。(言葉の伝え方の具体的な事例は、拙著『人もお金も引き寄せる伝え方の魔法』をご参照ください。http://amzn.to/2i58hQo)
さて、本題に戻るが、稲田大臣の「記憶にない」を、虚偽と決めつけて責めることは容易だ。しかし、それを「本当に嘘である」ということを証明できる人はいない。
筆者も『ひらめけ!発明大将軍』は「記憶にない」が、これを「安達さん、自分の担当番組でしょ? 記憶にないなんて無責任だよ!」と責める人もいるだろう。しかし、本当に「記憶にない」のだから仕方がない。
筆者がそうであえるように、もしかしたら稲田大臣も「記憶にない」ことを責められて困惑しているかもしれない。だからこそ、稲田大臣を「記憶にない」発言からは責めるべきではないと経験者として痛感する。
責めるのであれば、その伝え方のあまりの「下手さ」であろう。
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高須クリニック・高須克弥院長といえば、ヘリコプターで「ポケモンGO」をしたり、今をときめく(?)ピコ太郎とコラボCMを作ったりと、なにかと話題を振りまく人物。
そんな高須院長が、2月27日放送の『バイキング』(フジテレビ系)で語ったお金についての考え方が話題を呼んでいる。
「お金は血液、循環しないと。貯めても害をなすだけ」
「僕はね、お金を大事にしないの。お金は、ぐるぐる回ってる血液みたいなもの。使えば自分のところに戻ってくるんだよ」
と言う高須氏。どうやら、お金は単に社会に循環させるだけではなく、循環することによって、更に儲かるという哲学のようだ。お金は単なる紙切れで、それを積んでおいてもなにもならない、どう使うかが重要というメッセージである。
「自己投資なんて気負わず、役に立たなくても自分にとって面白いことに使うのが一番幸せ。自分が面白ければ、趣味でも勉強でもなんでもいい。お金を使わないと稼げないよ。宝くじだって買わなきゃ当たらないんだから。お金をただ持っていても、学びたいスキルは身に付かないし、彼女がいてもデートだってできない。お金は循環させて初めて価値を生むんだから」
多くの人が、「お金は大切にしなさい」「万が一のための備えなさい」と言う中で、それと相反するようでいて、それも真理であるような、自分流の強いメッセージを発するところが高須氏の魅力である。
「お金を貯めることに没頭するのは愚かですよ。あなたの一生がお金の奴隷では悲しいとは思いませんか?」
豪快な金使いは、社会貢献の分野でもいかんなく発揮されていることは有名だ。熊本地震の支援物資を積んでヘリで駆けつけたり、ナイジェリアの貧困サッカチームに約4000万円を寄付したり、フィギュアスケートの安藤美姫選手の支援を申し出たりと、生きたお金の使い方のエピソードには事欠かない。
多くの寄付や支援に対し、紺綬褒章や日本赤十字社金色有功章などが授与されているが、そういうところでもお金を例に挙げて魅力的に伝えている。
「1000万円儲けるよりも1000万円を慈善活動に使って喜ばれるほうが嬉しい」
死んでもお金はあの世に持っていけないから、個人資産の全額を慈善活動で使い切ってしまう、「子供たちが争うから」と子供たちには財産の一切を残さないと表明していることは有名な話だ。
筆者は25年にわたり放送作家としてテレビの第一線で活動し、多くの有名番組、人気番組に関わることができた。もちろんその中で、お金にまつわる話も数多く扱ってきた。とんでもない大金持ちや、大企業の社長などにも数多く出会ってきた。
しかし、高須院長ほど、お金に対して美しくも豪快な考えを持っている人を筆者は知らないが、他の追従を許さないそのパワーは、彼の「伝え方」が素晴らしさにあると感じている。
筆者は、あるボランティア団体のイベント(お祭り)で、高須院長とご一緒したことがある(ご本人は覚えてないと思いますが)。そのイベントは、招待制で家族以外は事前に登録した招待客した入場はできない。
その日は、通りがかったある小さい子供が入り口付近で、「行きたい、行きたい」とダダをこねてしまう場面があった。もちろん、事前に登録していないので入場はできない。スタッフが丁寧に断ろうとしているその瞬間、高須社長は割り込んでこう、切り出した。
「彼は僕の家族だから、入れてあげて」
もちろん、スタッフはその子が高須社長の家族でないことは知っている。しかし、その高須社長の勢いにスタッフも思わず、「家族でしたら、ぜひどうぞ」と入場を促したのだ。
さっきまで事務的に「招待制だからダメ」と断っていたスタッフも、思わず態度を翻してしまう美しすぎる伝え方。これこそ高須院長のすごさの真髄だ。この場面を目撃し、筆者は思わずグっとこみ上げてきた。
放送作家という職業柄、筆者は常に「伝え方」の重要性に関心を向けてきた。同じようなアイデアでも、「伝え方」の違いで採用にもなれば、却下にもなる。ボーナスを貰えることもあれば、名誉毀損で訴えられることもある。それほどまでに「伝え方」は全てを左右している。
筆者は、そんな「伝え方」の様々な事例についてまとめた著書『人もお金も引き寄せる伝え方の魔法』(すばる舎)を先日上梓した。人を引き寄せ、お金を引き寄せる「伝え方」の数々のエピソードを集めたが、高須氏の伝え方のインパクトはやっぱり群を抜いている。(具体的な事例は、拙著『人もお金も引き寄せる伝え方の魔法』をご参照ください。http://amzn.to/2i58hQo )
高須氏のメッセージの強さのルーツは、その生い立ちにあるようだ。インタビューでこう語っている。
「いじめられた幼少時代を過ごしたからこそ、困っている人の痛みを感じやすく、助けたいという思いにかられる」
そしてその思いは、整形美容の業界で実践されている。
「他院では断られてしまうような手間のかかる大変な手術も、私たちは出来る限りお受けしています。もし当院が断ってしまったら、悩んでいる患者様を誰も救うことは出来ません」
そして、あの有名なキャッチコピーが生まれた。
「YES!高須クリニック」
どんな説明よりも印象的でダイレクトな伝え方。値段やサービスのような細かい宣伝情報よりも、伝えなければならないメッセージがある。「YES!高須クリニック」のフレーズが全てを物語っているのだ。
苦しくても頑張っている人のために「YES!」と言う。高須克弥氏お馴染みのメッセージの根底を垣間見た気がした。
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2016年12月31日、SMAPが解散しました。筆者は「SMAP×SMAP」(フジテレビ)の番組立ち上げ当初に、構成を担当し、SMAPならびに関係者の皆様には大変お世話になりました。SMAPの解散の報は、なんだか他人事には思えません。
筆者とSMAPとの出会いは1992年。筆者が作家として参加した「夢がMORIMORI」(フジテレビ)という番組でした。森口博子さん、森脇健児さん、そして当時SMAPに森且行さんがいたのも縁(もちろんそれだけの理由ではありませんが)で、結成されて間もなかったSMAPがキャスティングされたのでした。
「ジャニーズの若者なんて生意気で扱いづらかったやだな」
などと思って番組に望んだのですが、会ってみたらびっくり。とても真面目で礼儀正しく、情熱的なメンバーで驚いたことを覚えています。
筆者は放送作家として、TOKIO、V6、嵐、タッキー、様々なジャニーズタレントさんのレギュラー番組を担当させていただきましたが、1度たりとも嫌な思いをしたことはありません。いつも楽しく、そして質の高い仕事ができた思い出しかありません。
こういった人作り、環境作りはリーダーや経営者の手腕に関わることですから、これもひとえにジャニー喜多川社長の人徳と努力の賜物なのかもしれません。
そのジャニー喜多川社長が、1月14日にSMAP解散に関して答えたインタビューを見て、その「伝え方の魔法」には感心させられました。さすがはジャニーさんだな、と。(拙著「人もお金も引き寄せる伝え方の魔法」では他にも、様々な「伝え方の魔法」の事例を紹介しているので、ご参照ください。http://amzn.to/2i58hQo)
「SMAPもああいうふうになりました。元気づいてやってくると思います。僕は(解散の詳細は)何も知らないですから、正直なところ。SMAPは頭文字を取るとさ、『(S)素晴らしい、(M)メモリー、(A)ありがとう、(P)パワー』でSMAPなんだよね。SMAPはそれで終わり。でも、個々がすごくやっているじゃないですか、活動を。絶対、期待出来ると思います。僕も今、子供たち(ジャニーズJr.ら)で新しい(作品)をやっていますから、それもご注目いただいて。これからの芸能界はますますよくなっていくということ」
この一言から始まったインタビューですが、以下のくだりで、筆者が思わず感心してしまいました。
「事務所から出ていくかも知れないという話はどう思う?」
というインタビュアからの質問に、ジャニー喜多川社長は以下のように答えます。
「みんな、それぞれの気持ちがある。だけど、みんな、そんな出て行くって言うことを前提に話はしてないと思いますよ。そんな野暮(やぼ)っちい人間、タレントじゃないと思う。僕は絶対永遠に後押し、バックアップ、応援をしていくつもり。誰に対しても。それは間違いない」
どうですか? 何か感じませんか?
「そんな野暮っちい人間、タレントじゃないと思う」
ここです!これは「相手の価値を上げることによって、相手にその気にさせる」という素晴らしい伝え方のテクニックなのです。
本当に自分の思いを相手に伝えようとするためには、「出て行かないと思う」「出て行くはずがない」「出て行って欲しくない」・・・などといったありふれた言い方はダメなのです。これは自分の気持ちばかりを言っていて、相手の気持ちを考えていません。「常に相手の気持ちを考える」ことで、コミュニケーションはうまくいくのです。
「出て行くなんて、そんなヤボなことをする人間じゃない、立派なタレントなんだから、人格者としての行動をするはずだ」というニュアンスが、強く感じられますよね。万が一、仮に出て行くことが頭をよぎっていたとしても、こんな言い方をされたのでは、出て行くわけにはいきませんよね。
これは私たちの日常生活でも応用できる伝え方です。誰かにものを頼むときも「やって欲しい」ではなく、「君なら凄く上手く出来ると思うんだよね、だからやって欲しい」なんて伝えることができたらどうでしょうか?
筆者が気持ち良く仕事ができた思い出しかないジャニーズタレントさんたちを作ったジャニー喜多川社長。その素敵すぎる伝え方に脱帽です。
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正月の恒例といえば「箱根駅伝」。関東の有名大学がこぞって参加している競技だけに、普段、スポーツに興味など持っていない人であっても、いつの間にか母校を応援してしまう・・・という不思議なスポーツであり番組です。
もちろん、視聴率という点からもその影響力の大きさがわかります。第93回となる2017年「箱根駅伝」の視聴率は、往路27.2%、復路28.4%と、「日本レコード大賞」14.5%のダブルスコア。40.2%の「紅白歌合戦」にも見劣りしない数字です。
さて、そんな箱根駅伝、今年の優勝は昨年・一昨年に引き続き、青山学院大学でした。3連覇したとは言え、青山学院大学の箱根駅伝と言われても、「ここ2、3年で突如躍進してきた」と感じている人は多いのではないでしょうか。
そこで今、注目を集めているのが、原晋監督の存在です。
原監督は、自身が就任した2004年当時は出場権すら手に入れられなかった弱小チームを、廃部の危機も乗り越え、わずか11年で優勝に導いた「名将」です。この原動力は何なのか? もちろんその中心が、選手の努力や、それを支える青山学院大学の組織的で科学的なサポートであったことは間違いありません。しかし、そのようなことは、箱根駅伝に出場している強豪校はどこでもやっているはずです。
筆者は、25年間の放送作家としての活動を通して、数々の人気番組とそれに携わるスタッフやタレントさんたちと関わってきました。特に、ゴールデンタイムの番組などは、箱根駅伝のように、番組はすべて強豪校です。多くのスタッフを集め、ありとあらゆるリサーチや仕掛けを駆使して参戦しています。
そんな中で、筆者が「勝つ番組」「負ける番組」には何の違いがるのか? ということを思い返せば、それは「言葉のチカラ」です。
番組の責任者や総合演出、プロデューサーたち(もちろん、筆者のような放送作家なども)が、若いスタッフや出演者たちに「どんな言葉を発するか」によって、番組は成功もするし、失敗もします。「言葉の力」が多くの役割を担い、それが番組の成否を決定づけると言っても過言ではありません。
(「言葉のチカラ」に関する具体的な事例は、拙著『人もお金も引き寄せる伝え方の魔法』をご参照ください http://amzn.to/2i58hQo)
そのような経験から、(テレビ番組制作と比較するのはおこがましいですが)青山学院大学の箱根駅伝を見てみると、そこには、原監督の「言葉のチカラ」が巧みに作用されていることに気づかされました。
つまり、青山学院大学の躍進の原動力のひとつは「言葉のチカラ」があったのではないか、と感じています。
今年の箱根駅伝では、3連覇を狙う青学大・復路の7区で田村和希選手が突然の体調不良に見舞われました。快調にトップを走っていたのが、16キロ過ぎから急激にベースダウン、苦しい表情で足もフラフラ、脱水症状の陥ったかのような状況でした。
そんな時、監督車から原監督は、こんな言葉をかけたそうです。
「みんな待ってるよ、スマイル、スマイル!」
この話を聞いて、筆者は原監督が発揮した「言葉のチカラ」に思わず感心してしまいました。こりゃ、名将になるよね、と。原監督がもし、テレビ番組の制作者であれば、確実にヒットメーカーになっていたと確信します。
原監督曰く、「最近の若者は、他人からどう見られているのかを非常に気にする」のだそうです。これはSNS全盛の時代で、他人からの評価などを日常的に気にする生活を送っているからでしょう。
そのような現実を考えれば、苦戦している若い選手に、
「頑張れ、気合いを入れろ、諦めるな、負けるな」
といった、通常の声援では何も響きません。もしかしたらマイナス効果かもしれません。そうではなく、「みんな待ってるよ」と、周囲が期待していることを伝えるのが、今の若者には効果的なのです。そして原監督流の「スマイル」が、そこにつくわけです。
その言葉に、田村選手は背中を押され、2位の早稲田大学に差を縮められながらもトップを守り、タスキをつないだのです。
このような「言葉のチカラ」にまつわる原監督のエピソーソには事欠きません。
例えば、原監督は、選手が遅刻したときなども、普通に遅刻を注意するのではなく、「他人からどう見られているのかを気にする若者」向けに、こう言うのだそうです。
「遅れるのは君にとって損だよ、他人から信用されなくなるよ」
これなどは、私たちが職場や、家庭などで、若者と接するときに使えそうな伝え方ですね。
「ワクワク大作戦(2015年)」「ハッピー大作戦(2016年)」「サンキュー大作戦(2017年)」・・・など、キャッチフレーズをつけ、「言葉のチカラ」をフル活用して指導していく青山学院大学・原晋監督。
原監督の「言葉のチカラ」は、スポーツ指導者の枠を超えて、私たちにも大きなヒントになるような気がします。
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最近、「炎上」という言葉を目にすることが多い。
「STAP細胞」や「五輪エンブレム」は言うまでもなく、SMAP独立、高嶋ちさ子ゲーム機破壊、桂文枝不倫、狩野英孝二股・・・などなど。いずれも問題それ自体というよりも、いわゆる「ネット炎上」ということで注目を集めることさえある。
狩野英孝二股騒動にいたっては、渦中の加藤紗里の言動が「炎上商法」と言われ、それ自体が炎上し、良い意味でも悪い意味でも話題となっている。
今、テレビ番組を作る上で、出演者も含めた制作者たちが、少なからず気にすることは「ネット炎上」だ。
間違った内容や捏造やヤラセなどが万が一にもあれば受けるが、そこから、番組とは関係のない個人への糾弾や、職場や家族、人間関係にまで批判の矛先が向けられ、個人情報までもが暴かれ、叩かれる「炎上」の発生は、そう簡単には受け入れがたいものだ。
ネットで着火された炎上が、リアルな社会生活にも大きな影響を及ぼすようになっている昨今、(良い意味でも悪い意味でも)それを完全に無視してテレビ番組作りはできない。
番組放送中であっても、SNSやツイッターなどを利用して批判や反論が発信される。その真偽や是非はさておき、それがネット民にとって面白いものであり、興味を引くものであれば瞬く間に拡散される。
テレビ局やタレント事務所もネットのリアクションには比較的敏感だ。「炎上は恐ろしいものである」というのがメディアで働く人間としての本音だろう。
しかしその一方で、同じような事象でも、人により・対応によって、炎上する場合と、しない場合がある。何をしても炎上する人もいれば、そうでない人もいる。同じことでも炎上する人/場合と、炎上しない人/場合がある。
この違いはなんなのだろうか?
「炎上商法」などと呼ばれる言葉もあるように、ネット上で批判的であれ話題を集めることで、その是非はさておき、そのパワーは利用して知名度の向上を狙うこともできる。「本当の炎上」にさえ至らなければ、「炎上商法は効果がある」と思わせるぐらいの「魔力」はある。もちろん、ネットで批判されたぐらいが炎上ではない、という前提で、だ。
コントロールできれば、これほど力強いものはないかもしれないが、なかなかそうはうまくゆかない、ネット時代の困った文化である炎上。発生要因はもとより、その過程や実態もよくわかっていない。
藤本貴之(東洋大准教授)の著書「だからデザイナーは炎上する」(中公新書ラクレ)では、そんなよくわからない炎上のプロセスが、「五輪エンブレム騒動」を事例にしてわかりやすく分析され、参考になる。
五輪エンブレム騒動で話題となった「パクリ問題」という身近でありがち(?)な出来事が、どのようにして炎上へと発展していったのか・・・ということを、ネットや社会の流れと、佐野研二郎氏(とその周辺)の言動から、細かく分析し、炎上の発生過程までも詳しく解説している好著だ。
もともとのテーマが、東京五輪に巣食うデザイン/デザイナー業界の魑魅魍魎への一刀両断であるため、単に「炎上の解説」ではなく、炎上しないための手法やこれからのデザイン/デザイナーのあり方や手法も具体的に提示しているあたりは親切でもある。
ここで論じられた炎上のメカニズムは、エンブレム騒動だけに限った話ではなく、あらゆる場面で目にすることだ。五輪エンブレムというわかりやすいトピックを利用はしているが、よく考えれば、多くの炎上の事例が同書で分析された流れに当てはまる。
詳しい内容はネタバレをしないためにも割愛するが、番組を守らなければならないテレビ制作者(出演者を含め)にとっては、ネット時代の今日、炎上の要素はそこかしこにある、ということを肝に命じなければならない。
もちろんそれ以上に大事なことは、騒動が発生し「炎上しかかった」場合に、それが本炎上し、延焼しないためには、どうすべきであり、どうすべきでないのか、という基本的な炎上メカニズムを理解することだろう。
しかし、多くの炎上している事例の当事者たちは、その現実に気がついていないという指摘には、ハッとさせられる。
そう考えると、これから取り返しがつかないような「炎上」しそうな人も自ずと逆算できるように思う。少なくとも、問題の大きさ、事態の過激さとは無関係に、弁明が上手で反論が理論的(に見える)な著名人は、炎上の有力候補かもしれない。
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「意識高い系」という言葉をよく目にする。SNSを駆使して、自分の経歴や人脈を過剰に演出したり(いわゆる「盛る」という状態)、充実した社会活動をアピールしたり、そこから人脈拡張に精をだしている「実は大したことない人」たちのことを指すようだ。
それは、実績が目に見えづらい大学生のような若い世代に多い。社会活動をするためのサークルやNPOを立ち上げたり、参加することを自己目的化している大学生たちがその典型例だ。そのサークルや団体が目指していることが「目的」ではなく、「そんな目的をもった団体を主催・参加していること」が目的なのである。
最近では、そのような動きが高校生にまで散見されるようになった。SNSなどで散見されるいわゆる「リア充」をアピールするための素材でもあるのだろう。また、大学受験における推薦入試の比率が高まる中、高校生たちも「自分のブランド力の向上」のために、「意識高い系高校生」へと変貌している例も多いように思う。
悲しい(?)ことに、筆者の周りには、そういった「意識高い系」の若者が多く集まってくる。もちろん、「本当の力」がない彼ら・彼女らは、こちらが何をするでもなく、勝手に現れては勝手に消えてゆくので、あまり実害はない。
しかし、実害はないにせよ、そういった若者たちが目の前で頻繁にチラつかれると、それはそれで気になるし、最近はやや食傷気味というか、自意識過剰な「意識高い系」な若者たちへの苦手意識を持つようになっているのも事実である。
そんな中、筆者が講師を務めているビジネス講演会に一人の女子高生が参加してきた。当時、高校1年生。大人を対象としている講演会なので、内容はそれなりに高度だし、高校生がすぐに利活用できるものにも思えない。参加費だって、大人向けなので、高校生には決して安くはない。
ビジネス企画のためのアイデア創出のスキルを磨くための筆者の講演会の情報をどこで知ったのかは定かではないが、その女子高生は父親に伴われて参加してきたわけだ。
その時の直感は、
「もしかして、これが噂の『意識高い系』の高校生?」
という、疑いの目だ。大人のビジネス講演会やセミナーに参加したり、異業種交流会で名刺交換をしたり、自分の売り込みを始める大学生は少なくない。それの高校生版ではないか、と。
やがて、講演会を介してひょんなことから、彼女とメールのやりとりをするようになって、また、彼女も何度か筆者のセミナーや講演会に参加してくれるようになっていた。
しかし、交流をすればするほど、今時の女子高生とは思えない、前向きで真剣な人物であることがわかってきた。大人向けの講演会などに参加しているのも、彼女なりに本気で勉強したり、経験したいことがあるからであったこともわかった。
つまり、結論から言えば、彼女は「意識高い系」ではなかった。
交流してゆく中で、彼女の考えていることが、女子高生ならではありながら、それがしっかりとしたポリシーに貫かれており、なかなか魅力的な人物であることもわかってきた。ちょっとイヤラしい話ではあるが、ルックスも決して悪くないし、在学している学歴も申し分ない。そして何よりもマジメだった。
そうなると、放送作家・プランナーとしての職業病だ。どうにかして彼女を世に出してみたいと思うようになった。もちろん、女子高生なので、保護者や学校の許諾も必要だろう。もしかしたら、方々から反対を受けるかもしれない。想定される「障害」をクリアするために、色々とシミュレーションをめぐらしていた・・・しかし、そんな危惧はまったく別の方向から現れた。
本人が「嫌だ」と申し出てきたのである。
これにはさすがに驚かされた。大人向けの講演会やセミナーに出て、決して小さくない額の投資をしてまで勉強し、経験を重ねている「女子高生」が、自分が「世に出る」ことを拒絶してきのだ。
「世に出たい」わけではないなら、なぜ、そこまで自己研鑽を図るのか。そこでの学びはマイナスではないにせよ、通っている高校ですぐに活かせるような知識やスキルは多くはないだろう。むしろ、世に出るための知識でありスキルばかりだ。実際に、筆者の講演会やセミナーに参加する人で、「世に出るための」のチャンスを求めてくる人は少なくない。
断られるとなおさら火がついてしまうのも、職業病だろう。色々と話をした結果、「ペンネーム」で作家としてデビューすることで落ち着いた。もちろん、顔出しや個人や学校が特定できるようなものも、一切出さないという形で、だ。
そして三ヶ月。筆者がゴーストライターのようなことはしないし、特別な手助けもしなかった。これは、彼女自身が選択したことだ。そうやって原稿は書きあがった。
もし、それが「女子高生の作文」であれば、容赦なく出版社には「ごめんなさい、やっぱ書けなかったです」とあやまって取り下げる覚悟だった。
しかし、出来上がった本は、見事に商業出版の水準をクリアしていた。これは見事としかいいようがない。当初、「意識高い系女子高生」と怪しんでいたわけだが、嬉しい形で裏切られた格好だ。
彼女の名前は「須堂紗奈(すどうさな)」。もちろん、本名とは一切関連性のない完全なペンネームだ。2015年4月に出版された「女子高生が考える十代の生き方」(麻布書院)が須堂紗奈の処女作である。
本の宣伝を書くわけにもゆかないので、紹介は割愛するが、「いまどき珍しい」マジメな女子高生の考えがみずみずしく描かれている。巻末には一応、プロフィールが書いてあるが、個人が特定できるものは何も書かれていない。
せっかくなので、著書を自己宣伝に使えばいいのにな、と思ったが、見事に何も書かれていない。現在、高校3年生になった須堂紗奈は、筆者が嫌悪してやまない「意識高い系」な若者からは最も遠い感性をもっているように思う。
自意識過剰で大人の評価ばかり気にして「大人ごっこ」に勤しむ「意識高い系」諸君にはぜひ見習ってもらいたいものだ。
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先日、知人たちとともに港区にある「ミシュラン星付き」のフレンチレストランへ食事に行った時に、大変に屈辱的な経験をしました。
訪問したメンバーの中に、トランスベスタイト(異性装者)の男性がいました。いわゆる「女装家」です。もちろん、それは宴会の出し物のコスプレでもなければ、おもしろ半分の着ぐるみのようなものではありません。彼女(?)は自分のアイデンティティーとして異性装をしているのです。もちろん、筆者も一緒に食事をともにして不愉快な思いをしたことはありません。
さて、その彼女が「ミシュラン星付き」のフレンチ店に入り、何気なく空いていた中央の席に行き、その場所に座りました。するとどうでしょう、店員がそそくさとやってきて、「店のはじっこの席」に行くように促されました。
さらに、トランスベスタイトの彼女に対して、中央に背中を向けて座るようにと言われたのです。少し遅れて入店した筆者が到着した時点で、彼女はその状態にさせられていたのです。
このいわれのない屈辱的な扱い。もちろん筆者の目の前でされていれば、その場で抗議したのですが、彼女は、ばつの悪そうな顔で寂しいそうに座っていました。あまりに悲しそうなその姿に、さすがに怒りがこみ上げてきました。
支配人を呼び、この屈辱的な扱いに対する事実確認と苦情を伝えることにしました。もちろん、楽しい食事の最中なのでその場での口頭でのやりとりは避け、「なぜ、その様な判断をこの店はするのか?」ということを、書面で回答をもらうこととしました。
そして、その店が出してきた回答が更に筆者の怒りに火を注ぐものでした。
その理由は、
「他のお客様の迷惑になるから」
だというのです。それに対して、筆者が、
「迷惑って具体的にどういう事ですか?」
と、確認をしたところ、
「他のお客さんが気になって、本来食事中にする会話が出来なくなる」
という回答です。さすがに、これには「怒り」というよりも「悲しさ」さえ覚えました。ミシュランの星がいくつ付いていようが、ここまで意識の低い店が大手を振って「有名店です」と営業できている事実に愕然としました。
ようは、
「お前は見ていて不愉快なので、他の客に見えないように背を向けて端の席に座れ!」
ということなのです。もちろん、不潔な格好をしているわけでも、ショーパブの出演衣装のような格好ではありません。純粋に、女性としての装いをしているだけなのです。
この店に聞きたいことは、
もしかしたら、筆者がこういった問題について神経質なだけかもしれません。しかし、マツコデラックスのような有名人が来れば、ニヤニヤ笑いながら支配人が挨拶に来る様が目に浮かびます。
しかし、この店に腹を立てている一方で、筆者は自分が言っていることに対して「一抹の気持ち悪さ」もあります。なぜなら、「そんな店だった」とは知らなかったにせよ、自分自身の意志で「その店」選んで行っていたからです。強制的に連れてこられたわけではありません。
このお店が、ハッキリと
「うちはトランスベスタイトはお断りです」
とか、
「男性(女性)が女装(男装)していたことが発覚した場合は、他のお客様の目の届かない席にご案内する場合がございます」
などと謳っている店であれば、それはそれで潔い経営方針だと思います。愉快・不愉快には個人差はあるでしょう。店によっては通常のドレスコードもあります。「短パンとサンダル禁止」のレストランに対して、「短パンとサンダルのアイデンティティーが傷ついた!」とは、誰も言わないはずです。
最近では、箸が使えない人は入店お断りの和食店もあるようです。公共の場であれば、許されないと思いますが、店が自己主張をするのは全て非難されるものでもありません。そういった店には「客として行かないこと」を選択することができます。
トランスベスタイトの彼女はめいっぱいのオシャレをして、美しく上品に着飾っていたのです。彼女が安心して食事が出来る社会にするべきではないでしょうか。多様さの相互理解が問われているように思われます。
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