2月24日放送のCX『ホンマでっか!?TV』を見た。カメラは、5、6台以上使っていると思うが、引きを撮らないので、出演者の位置関係が分からず、ちょっとイライラする。どこに誰がいるのかそれを教えてくれると見ている人は安心する。位置関係は人間関係だ。
さんまさんは自分のトークの文法を駆使して、快調にスタジを回し、笑いをとっている。マツコはいなくなったが、コメンテーター陣には心理学者の植木理恵、脳科学者の中野信子が揃い、ここに哲学者の池田晶子(故人『14歳からの哲学』著者)が加われば、脳科学、心理学、哲学それぞれ、3人の巫女が揃って壮観だなあ、などと思う。
トークの間に情報が入るのがこの番組のウリだが、笑いに情報を掛け合わせる手法の番組に、筆者は少し飽きている。今は流行なのだろう。みなそういう番組ばかりだとも言える。筆者と同じ時間、テレビ界にいてテレビ局をリタイアした友人にこの話をしたら「お前はまだテレビが好きなんだなあ」と言われた、友人はもうテレビに興味がないらしい。
さて、本稿でしたいのはさんまさんに関する昔話である。
『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(CX1981〜1983)は全盛の頃、毎回視聴率30%越えをしており、フツオ(普通の子:長江健次)、ヨシオ(良い子:山口良一)、ワルオ(悪い子:西山浩司)の子どものコーナーのコントを書いていた筆者は40%も狙えると思っていた。(結果は最高39.8%)
その末期、これまた全盛期の明石家さんま(当時31歳)がゲストでやって来て、学生服姿で欽ちゃんとコントで初共演した。さんまさんは、居間を所狭しと暴れ回り、会場は大爆笑。その動きの速さは欽ちゃんを置き去りにするほどだった。当時の筆者は「イヤな予感」がした。
この時のさんまさんとほぼ同じ32歳だった時の欽ちゃんは、『コント55号のなんでそうなるの?』(NTV)で、坂上二郎産さんを相手に浅草演芸場で2m(と思えるほど)飛び跳ねていたいた。その頃の欽ちゃんは、可愛くて女の子にモテて、運動神経が良くて、芝居が出来て面白い。つまり、三拍子揃っていた。『良い子悪い子普通の子』の頃は、46歳で、三つの美点が薄くなっているのを自覚しており、その美点を、可愛い長江健次、芝居の出来て笑いがとれる山口良一、運動神経抜群の西山浩司に割り振って、3人ひと組で、一人の萩本欽一をつくろうとしていた。
そこにやって来たのが1人で三つの美点を持っている。全盛期の自分とそっくりの(と思ったかどうかは、筆者の推測である)明石家さんまだった。
収録がおわって大将は(欽ちゃんをスタッフはこう呼ぶ)主要なスタッフに静かな声でこうおっしゃった。
「おれを、つぶす気か」
もちろん、さんまさんと共演させたことを指している。チャップリンを思い出した。どの映画だっただうか、登場した犬が見事な演技を見せた。爆笑のシーンが撮れた。しかし、監督チャップリンはその犬のシーンを全部カットした。同じ映画の中に自分より面白い存在があることは決して許さなかったのだ。
欽ちゃんは、さんまさんのことを「今どきの芸人には珍しく『受け』が出来る」と、よく褒める。
欽ちゃんの笑いは『フリ』『オチ』『フォロー』で出来ている。この『フォロー』の部分が前段で言う『受け』である。「大抵の笑いは『フリ』『オチ』『フリ』『オチ』の繰り返しで出来ているが、ここに『フォロー』=『受け』を入れることで笑いは倍加する。さんまさんは人のトークを聞いて、スタジオにひっくり返ることがある。あれが『フォロー』=『受け』のひとつである。
『フリ』『オチ』の繰り返しはまた、『ボケ』『ツッコミ』『ボケ』『ツッコミ』の繰り返しとも同じである。『ボケ』た後に「いいかげんにしろ」と『ツッコミ』をいれたらそれで終わり。それ以上話は続けられないので違う『ボケ』を用意せねばならず、話がぶつぶつ切れる。笑いが寄せる波のようにだんだん大きくはならない。
だから、欽ちゃんの『フリ』『オチ』『フォロー』においては、『フリ』は指示だと言える。『オチ』は笑いだが指示をどう『コナす』かである。当然次に来るのは『フォロー』でなければならない。この、『フォロー』のあとに『ツッコミ』を入れてはいけない。繰り返すが『ツッコミ』をしたらそれで終わり。『ツッコミ』ではなく『落トシ』になってしまう。「言ったらおしまい」なのである。それから、『ツッコミ』が単なるの「指摘」であってもいけない。「発見」ないし「展開」でなければならないとも欽ちゃんは言う。だから、欽ちゃんの『フリ』『オチ』『フォロー』は『フリ』『コナし』『フォロー』と言い換えた方が分かりやすいかも知れない。
で、これを教えたわけでもないのにこともなげに出来るのが明石家さんまだと欽ちゃんは言うのである。
以上でしたかった昔話は終わり。ところで、筆者が一番好きなさんまさんの番組は『さんまのお笑い向上委員会』である。
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韓国で伊藤博文の暗殺事件をモチーフとした子供向けブロック玩具「独立軍ハルビン義挙」が発売されていたことがわかり、話題となっている。日本で伊藤博文といえば、かつて1000円札にもなった日本近代化の功労者であり、近現代を代表する偉人の一人であろう。
一方で、1905年に設置された「韓国総督府」の初代韓国統監となった伊藤博文は、韓国では日本帝国主義の象徴、極悪人として描かれることが多い。韓国では暗殺犯である安重根は民族独立の英雄であり、伊藤博文の評価は日韓では著しくる異なっていることはよく知られている。
さて、話題となっている安重根による伊藤博文暗殺事件の場面がモデルとなったLEGOに酷似した韓国製ブロック玩具。対象年齢は8歳以上というが、玩具の政治利用や反日ビジネス以外に何の目的や効果があるのか? 誰がターゲットなのかも、理解に苦しむ。
子供向けのブロック玩具に暗殺事件をモチーフとして利用することや、政治問題化しそうな議論やナイーブな問題を採用することに、なんとも言えない悪質さ、不気味さを感じている日本人も少なくない。そもそも子供用の玩具に鉄砲や爆弾などの暴力的な武器のパーツを入れること自体、健全とはいえないと感じる人も多いはずだ。
確かに、このような商品は話題にはなるし、反日が一種の経済手法になっている韓国においては、もしかしたらビジネスとしては正攻法なのかもしれないが、日本人としてはたまったものではないし、国際的にも受け入れられるものではない。
もちろん、本家LEGOには、ハリーポッターやマーベルコミック、スターウォーズなど、子供に人気のアニメや映画などをモチーフとしたモデルも多く、その中には戦闘的な場面もある。だからといって、実際の暗殺事件や殺人事件が題材になるようなことはない。
[参考]韓流BTS「パクリ疑惑」はフランスの写真家だけではない
しかしながら、本件は「子供の玩具の政治的利用」や「反日ビジネス」という悪質さだけではない、根深い問題も残っている。「伊藤博文暗殺事件の玩具」というインパクトに見落とされがちだが、実は、考えなければいけない本質的な問題もある。
そもそも、発売されている玩具自体が、LEGOと酷似したパクリ商品である。もちろん、パクリ玩具などはLEGOほどの有名ブランドであれば慣れている事案だとは思うが、一方で、今回は、あまりにも酷似した玩具であるため、ともすればLEGOのような国際ブランドが、「伊藤博文暗殺事件モデル」を発売したかのように見える。これは、LEGOブランドへの著しい毀損や風評被害にも繋がりかねない。内容物は言うまでもなく、パッケージのデザインもいかにもLEGO風だ。パクリ問題、知的財産権の問題以上に深刻な問題だろう。
また、発売元の会社名は韓国企業にもかかわらず、「オックスフォード社」という社名であり、こちらも非常に紛らわしい。オックスフォード(OXFORD)と聞いて誰もが思い浮かぶのはイギリスだ。オックスフォードを冠したイギリスの有名企業は、アパレルや出版など少なくない。老舗企業も多い。
これではあたかもイギリスの老舗企業が「伊藤博文暗殺事件」の玩具を発売したかのような印象さえ受ける。少なくとも、「オックスフォード社が伊藤博文暗殺事件の玩具を発売」などと書かれた記事とその商品写真を見たら、「LEGOがイギリスで伊藤博文暗殺事件の玩具を発売したのか?」と錯覚を受けてしまう。
かつて、地下鉄サリン事件を起こした「オウム真理教」の出版部門が「オウム出版」という名称であったことから、老舗の有名理工系出版社である「オーム社」は関連があるのかと疑われ、風評被害を受けたことがあった。その騒動を彷彿とさせる。紳士の国イギリスからしてみればもはや国辱モノの社名である。「東京」や「日本製」という社名の会社が不謹慎な殺人事件の玩具を発売するようなものだ。
韓国で展開される反日ビジネスや不健全ビジネスに関しては、いささか食傷気味で慣れている人も多いかもしれない。しかし、今回の「伊藤博文暗殺」のパクリLEGOは、無関係な企業・国家のブランドや国際世論にも影響を及ぼしかねない根深い問題を抱えている。単に反日ビジネスという話では治らない問題の深刻さを考える契機としてほしい。
もちろん、発売元からすれば、玩具を通じて歴史を学ぶ、「教育の一種」という主張もあるのかもしれないが、まずは知的財産権や国際コミュニケーションの問題についても、しっかりと教育し、学ばせてほしいものだ。そもそも韓国にとってもマイナスブランディングでしかないし、国際社会がこんな不謹慎な玩具を受け入れることは絶対にないのだから。
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山田真貴子氏が総務省情報流通行政局長の職位にあった時期に東北新社子会社の衛生放送事業会社が不自然な認可を得た。菅正剛氏が取締役を務める東北新社グループの子会社「株式会社囲碁将棋チャンネル」が2018年に総務省から「東経110度CS放送に係る衛星基幹放送の業務認定」を受けた。この認可が極めて不自然である。
当時、総務省はハイビジョン化を進めるために衛星基幹放送の大幅な組み替えを行なっていた。認定においてはハイビジョン放送であることが重視された。実際、このとき認定を受けた12社16番組のうち、11社15番組がハイビジョン放送だった。
ところが、「囲碁将棋チャンネル」番組だけ、ハイビジョンではない標準画質放送であるのに基幹放送の業務認定を受けた。この認定を決定した情報流通行政局のトップが山田真貴子氏だった。その山田氏が総務省職員ナンバー2の総務審議官の職位にあった、疑惑認可の翌年に東北新社から過剰接待を受けた。一人7万4000円の飲食饗応接待を受けた。
東北新社衛生放送事業子会社の役員は利害関係者であり、公務員倫理規定に違反する。しかも、7万4000円の高額接待は収賄罪が成立する可能性のある金額だ。国会に招致して説明を求めても、明白な証拠がない限り、口からでまかせの問題にならない答弁を行うことは目に見えている。
TBSの情報番組に出演するコメンテーターが山田真貴子氏の説明を絶賛したが、TBSは工作員まがいの茶坊主のようなコメンテーター起用をやめるべきだ。日曜朝の情報番組でも司会者や出演者が工作員であることを告白するような政権擁護発言を繰り返す。
電波メディアの生殺与奪の権を総務省情報流通行政局が握っている。その支配下に置かれているからテレビ局は政権工作員的な人物を番組の要所に配置しなければならないのだろうが、仮にそうであるなら、バッジなどを付けさせて、視聴者に分かるような配慮をすべきだ。
「御用バッジ」のようなものを製作して、御用コメンテーター、御用司会者には、そのバッジを付けさせる。これがあれば、視聴者は御用発言があっても、「これは御用人の発言」と認識して受け止めることができる。
インターネット上のニュースポータルサイトに、ニュース記事を装った広告が散りばめられている。しかし、よく見ると「PR」の表示がついているから一般の記事と区別できる。テレビに登場する「御用人」については、その属性が分かるように「御用バッジ」を付けさせて視聴者に配慮するべきだ。
テレビ局が自主的に対応できなければ、市民がコメンテーター等の属性を評価、判断する格付機関的な第三者機関を立ち上げて、広く市民に情報を周知させる必要もあるだろう。その一方で、政治権力に対しても厳しく批判を展開する良質な指揮者が画面から遠ざけられている。
そのマスメディアに睨みを利かせるのが総務省情報流通行政局。菅義偉氏は菅氏に巨額の資金支援を行う企業に長男を入社させた。親のコネで入社したことは客観的に見て間違いないと思われる。バンドマンをしてぶらぶらしていた菅正剛氏を、菅氏が総務相に就任した際に大臣秘書官に起用した。
菅正剛氏は大臣秘書官を退職したあと、東北新社に入社した。大臣秘書官時代に総務省幹部と面識を得た。東北新社に入社し、衛星放送事業子会社の役員を兼務して、総務省幹部に対する違法接待に邁進したのが菅正剛氏だ。
菅氏ら東北新社幹部による総務省幹部に対する違法接待の場では、衛星放送事業子会社の業務にかかわる会話をしていたことが明らかにされた。総務省幹部は国会に招致されて追及されてもウソを突き通していた。しかし、音声データという決定的な証拠が突き付けられると、発言内容を変えて事実を認めた。国会に招致しても、決定的な証拠がなければウソを突き通す人物たちなのだ。
総務省情報流通行政局は極めて不透明な認可を行った。その時期の局長に対して翌年過剰接待が行われている。この関係を突き詰めれば、贈収賄事件に発展する可能性もある。
国会でいい加減な答弁を行い、懲戒処分もなし、内閣広報官更迭もなし、で幕引きを図ろうとするなら、主権者国民が黙っていない。この一点を理由に次の世論調査で内閣不支持を広げる国民運動の展開が必要だ。
「UIチャンネル」第380回放送、鳩山元首相との対談がアップされております。ぜひご高覧賜りたい。
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いきなりだが、メディアに「喝」だ。
我が国公衆衛生行政の実態は「コロナ」で露呈したものの、そんなとき決まって引き合いにされるのが海外比較。むろん医師数、看護師数、ベッド数などの対比は大切だが、肝心の「医療に辿り着けないひと」が存在することにメディアの追跡はどうにも鈍い。即ち、医療を必要とするひとにとって、医療に「繋がらない」という事実は、明らかにシステム難民をつくっていることになるからだ。
「とても気の毒でした。持病もあった方でしたが最後まで入院先が見つからなくて。施設内に留まるしかなくて。体調をくずした3日後にお亡くなりになりました。無念だったでしょう。もの静かな80代の男性でした」(都内・介護施設長)
「ウィズコロナ」など、とんでもないのだ。それは「コロナ」ばかりではない。自宅で、施設で、ホテルで待機くださいと「医療にかかれない」のだから尋常ではない。なかには、入院かなわず「待機のまま、ひとり死んでいた」との報道も。連日、ニュースやワイドショーで地域別感染者数や死者数の紹介が、また医療介護部門の深刻な現場レポートがあるも、そこで「医療にすがるひとびと」への反応は確かに「のろい」といえよう。
我が国では「いのちの司令塔」である身近な保健所が崩壊していた(る)のだ。
ひとの生き死に関するシステム難民を生む下地に、メディアは保健所の「いま」に着眼することが肝要だが、得意なはずのそれの海外比較には言及しないから、ことの真相に迫れないまま。「どうして医療にかかれないのか」には、現行の医療システムをつくつた国策の、構造的な欠陥への検証が急務といっていい。
「コロナ」から早くも1年が経過し、多くのひとはほとほと自粛疲れの渦中にいないか。
とはいえ、入院先の医療や、高齢者介護の現場では、日夜懸命に対応に当たるエッセンシャル・ワーカーの存在が頼りだ。それら救命部門や、支援機関相互の連携の「司令塔」は保健所だが、その「司令塔」自体が「コロナ」が始まる以前から崩壊前夜にあったことは知る由もないか。限られた陣容と体制のもと、保健所では「—ひたすら(公衆衛生を守る)使命感だけでまわしています」は、現在も続いている。
「—役割を終えた」と、身近なはずの保健所は「行政改革」の名の下で縮小の憂き目にあい、「業務の見直し」とは、とどのつまり「統廃合」(1994年保健所法)だった。
その減少は甚だしく、全国の保健所は1996年度までは800ケ所を超えていたが、97年度から母子保健サービスが市町村に「移管」を理由に、2020年度は469ケ所に半減している。常勤保健師は18年度に約8500人、単純計算で1ケ所あたり約18人は、地域住民のガン、脳卒中予防や自殺対策を含む精神保健など、依然として対象と守備範囲は広い。
果たして国の意図は何だったのか。思いがけず「コロナ」で、我が国の公衆衛生のドタバタぶりをさらした。国は「コロナ」対策に「さまざまな目詰まりがあって」と釈明したが、元を糾せば公衆衛生そのものを自治体へ縮小前提の丸投げがあったから。そのせいで現場に混乱を拡大させ、市井は唯々あっけにとられた構図だ。
行き場のない患者(疑い)を前に保健所が哭いていた。
保健所の疲弊が続いては感染防止の「司令塔」が危ない。大麻や拳銃の密輸摘発のように「水際作戦」をどうするのか。万が一はいりこんだら、感染したら、感染後には、何をどうするのが良いのか。そのとき既に保健所はパンク状態にあり、地域における公衆衛生必携の「連携」「情報共有」そのものがグラリと揺れた。
人員削減のツケは重かった。騒動を巻き起こしたのは誰か。「司令塔」がマンパワー不足では「SOS」も繋がっていかない。といって受け入れの医療機関も「ベッド不足」「人手不足」「機材不足」に喘いでいた。受け皿がなければ選択も決定もない。8月には「応援派遣」での乗り切り策を政府は発表するも「コロナ」は自治体をまたぎ蔓延している。拡散する危険を避けるシナリオは、もはや遺棄されたかのよう。
いまさらながら「司令塔」にもの、ひと、金がないのだ。国が目論んだ「コストダウン」は、後日、はるかに高いものについたことになる。
もちろん、それは国民の損失に他ならないから因果関係を問うて当然といえる。
ところで、我が国の保健所誕生の起源は「スペイン風邪」(1918年から1920年、世界人口当時18億から19億人、うち5億人が感染、推計2000万人が死亡と伝わる)とよばれた「疫病」にあった。「コロナ」と似た感染症の「第一派」「第二派」(大正7年から9年)で我が国の死者数は推計50万人とされ、自身も罹患した原敬首相(当時)は「衛生行政の転換」へ大きく舵を切り、その後の保健所誕生につながったという。皮肉にも「コロナ」は「スペイン風邪」の再来といわれたが、その苦い教訓の「記録」はいまに生かされたのか、こんな波紋も引き起こしていた。
「乳幼児健診休止相次ぐ コロナ拡大 病気 虐待 見逃す恐れ」(2020.11.28毎日新聞)
見てみぬふりか。歴史の示唆を見過ごしてきた国、行政の責任は、いまさらながら重い。
感染にどんでんかえしはない。国民の生命を守るのに、身近かな保健所の充実に向けた安全安心の再構築は、「コロナ」のいまだって急がれることは言うまでもない。
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選挙報道とは実に不可解なこと、恣意的な切り取りや歪曲は多い。エンタメ化された部分だけクローズアップされたり、実態とは異なる面白おかしい対立シナリオを作り上げるなどは多い。
例えば、私の地元である千葉県でも、県知事選挙を控え、様々な情報が錯綜している。その中には、理解不能なことも少なくない。(筆者自身、現在、支援している候補者がいるが、公平な選挙を目指すために本稿ではあえて候補者名をここで挙げることは控える。)今回、問題提起したい点はマスメディアの報じ方である。米国でも政治に関するメディア報道は大きな問題となっているが、巧妙に、そして自然に視聴者や読者に印象付ける文章表現について改めて伝えたい。
筆者は選挙で政党から一切、公認や推薦をもらわない完全なる無所属の政治家だ。これまで、どこの政党にも所属したこともなければ、家族・親族に政治家もいない生粋の無所属である。もちろん、無所属であるとしても、党派を超えて様々な政党や団体との付き合いがあるのは当然であるし、個人的に信頼関係を築いている政治家は多くいる。一方で、旧民主党系の政治家が潮目が変わって突如、無所属になったような政治家とは一緒にされたくないという「無所属のプライド」もある。
今回の千葉県知事選で筆者が支援している候補者とは出馬表明以前から政策協議を行っていた間柄であり、千葉県内で真っ先に候補者と筆者の2連ポスターを貼り出した。協議の際、リーダーというのはあらゆる政党をリスペクトし、あらゆる意見を聞くために「排除の論理」は取らない、という姿勢も了承した。
[参考]<パフォーマンス政治?>「ホワイトアクション」に対する報道とSNSの温度差
まもなくして、その候補者が無所属で出馬表明をした際に、自民党及び公明党一部の国会議員、立憲民主党が支援しているという報道がなされた。その後、ほどなくして自民党は独自候補を擁立したことにより支援報道から消え、現在、筆者が支援している候補者は残った「立憲民主党の県議団」と「日本維新の会」が支援している状況となった。
そもそもこの候補者の支援の中枢を担っているのは明らかに千葉県内の無所属の地方議員・首長軍団である。筆者が所属する千葉県議会の無所属会派は県議会で、その候補者と政策協定を締結している。さらに先日は党派関わらず県内市町村議会議員と締結したことも発表された。確かに立憲民主党とも2連ポスターを貼り出しているが、それと同様に、いやそれ以前から無所属県議である筆者とポスターを貼り、今では相当数の無所属の首長や議員と2連ポスターが貼り出されている。しかし、こうしたことはメディアでは一切報じられないのだ。ただただ、結果論でしかない「立憲が支援」という部分だけがクローズアップされている。
もちろん、マスメディアの報道では「立憲民主党が支援する〇〇氏」と書かれる。「無所属や維新が支援する」とは書かれない。我々無所属議員では役不足なのかもしれないが、それでは明らかに信ぴょう性に欠ける。「立憲」としなければと自民党と共産党との対立軸にならず、メディアとして面白みがないからなのか。
地方政治は二元代表制であり、政党政治ではない。なぜ国政の構造を無理やりこじつけ、与野党構造を作り出そうと躍起になるのであろうか。候補者本人が幾度となく地方政治の在り方を説明しており、「無所属・維新に支援をいただいている」と何度もSNS等で発信している。いくら候補者及び無所属や維新の政治家が連携しているということを発信してもメディアは「立憲が支援」という設定に固執する。
県政であることから、県議会の動きを報じることは非常に重要であるにもかかわらず、報道されるのは国会議員の内容ばかりだ。これは自民党関連の報道にも言える。自民党の国会議員の不祥事を知事選にこじつけて報じることはおかしいのだ。もっと言えば、そもそも現時点で千葉県知事選に出馬表明している8名を公平に扱うべきなのだ。
県議会では我々無所属会派の議員が支援していても、県議会に一人の「市民ネットが支援する」という記事の方が大きかった。「政党」や「団体」でしか報じることができないのだとしたら、県民や市民に二元代表制の仕組みや地方政治への理解が深まるはずがない。さらには、共産党の候補の報道は少ないことも気になる。衆院選を控えているからなのか、国政の関心が高いからなのか、国政の政局を軸にした政党優先の報道をしているのだから、地方政治の政策論争が進むはずがないのはもっともだ。現在は新型コロナウイルス感染症対策に防災対策と千葉県の課題は山積みである。それらに対してどのような政策を持っているかということが何よりも大事である。
一般論でいうと「立憲=左」であり、わたしたちが支援している候補者を、メディアは意図的に左のイメージをつけたいような気がしてならない。明らかに右の要素が強い「維新」の名前は地元紙ではなかなか見つからない。こうしたメディア報道に対し、全面的に支援をする多くの無所属議員たちが説明に追われている。だからこそ、有権者には候補者本人の発信をしっかりと読んでほしいと思うし、気になったことは候補者に質問したら良い。メディア報道に対して候補者自らがSNSですぐに説明・発信できるのが、現代の選挙なのだ。
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次のコント界をになうスタア誕生と言っていいと思う。
岩倉美里(1990年生まれ30歳:身長160cm、体重59kg宮崎県出身 女性)
中野周平(1990年生まれ30歳:身長176cm、体重82kg岡山市出身 男性)
この二人の男女ユニットは吉本興業所属の「蛙亭(かえるてい)」という名だ。「マッチング・アプリ」とのタイトルのコントを見たとき、笑うと同時に感じたのは新鮮な衝撃だった。こういう気持ちになったのは、思い返してみればコント55号、東京乾電池、東京ヴォードヴィルショウ、インパルス、大森カンパニー、かもめんたる以来である。
近年、上手なコントユニットはこれまでいく組かいたが、いつも新鮮さは感じなかった。では蛙亭なぜ新鮮なのか。コントの命とも言える設定が新しいのである。コントは芝居の一種だから、先にどういうストーリーが展開するのかワクワクする設定が用意されなければならないと考える。その点で蛙亭は、群を抜いている。
人物の性格設定もきちんとしていて破綻がない。女性の岩倉が書いているという台本が自分たちコント俳優が(敢えてこう言う)持つ性格を把握しているからだろう。
今という時代も蛙亭を手を広げて迎えてくれるだろう。インパルスの板倉俊之や、かもめんたるは、ちょっと時代が早かったのかも知れない。今は、コントが再びメジャーに取り上げられつつある時代であり、蛙亭には多いに活躍できる舞台が用意されるだろう。
[参考]<いまこそ期待>2013キングオブコント優勝「かもめんたる」
さて、蛙亭が、メジャーへの茨道をさらに登っていくための余計なお世話を言っておきたい。
コントを作家に台本を書かせてはいけない。自分たちでずっと書くべきだ。作家の付いているコント番組に呼ばれることもあるだろう。その時も、わがままを言って、自分たちに台本を書かせてもらうようにお願いするのが良いとおもう。忙しくなって作家に書いてもらわないと間に合わなくなることもあるだろう。そういうときでも、気に染まない台本にも金は払うからといって、たくさん台本を手に入れ、ボツにする自由を自分たちが持つべきだ。
突っ込みをセリフにして言わず、芝居のリアクションで出来るのはいま、蛙亭だけかも知れない。大阪にいるからと言って、大阪流に染まる必要はない。余計なセリフは喋るな、動いてください。
オチにこだわる必要はまったくない。終われればいい。漫才のように「ありがとうございます」とも言う必要はない。オチを考えるんはいいが、そこに時間を掛けるのは無駄な作業だ。
もっと余計なお世話だが、漫才はもう止めた方がよい。漫才をやっているとつい喋ってしまうからだ。漫才の方が楽かも知れないが、稽古のいるコントに注力した方がいいと思う。今は、フリートーク全盛の時代で、蛙亭は、それも出来ないこともないので、呼ばれることが増えるだろうがマネジャーと相談して最低限にすべきだ。吉本興業のマネジャーには胆力のある人物も多いはずだから、蛙亭のやりたいことを主張して実現していくのが望ましい。
蛙亭の欠点は、まだ、芝居の上手さがいわゆる俳優レベルに達していないことだ。舞台上に、ただ立っているときの姿が決まっていない。何も芝居していないときの姿がかっこわるい。吉本新喜劇に出してもらうといいかもしれない。松竹新喜劇を観に行くのも良い。宝塚も良い。日舞など習ってみるのも良い。小劇団も見てみますか。
蛙亭には大きな未来が待っている。もう少しで、本物のコメディアン誕生だ。
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第1便(2月12日)=64,350バイエル 接種386,100回
第2便(2月21日)=75,000バイエル 接種450,000回
合計で836,100回、418,050人分。これは1バイエル(以下は瓶と表記)あたり6回接種を前提とした数とだそうです。しかし、1瓶から6回分の薬液を採るには特殊な注射器が必要です。
すでにはじまった4万人ほどの先行接種はすべて1瓶から6回接種できる特殊な注射器を使っています。これは厚労省が1月末になって日本で唯一特殊な注射器を生産するニプロ社にアプローチし、2月はじめに出荷を受けたニプロ社在庫分10数万本です。ちなみに厚労省がニプロ社に以後の増産を依頼したのは在庫出荷後の2月第2週ごろのようです。
その増産について日経新聞は、『(ニプロの)タイにある工場の月間生産量は約50万本。9月ごろには1か月で数百万本の供給を目指して生産体制の増強に向けた検討を進める。』 (要約)と書いています。9月までニプロ社からは雀の涙ほどしか手に入らないということです。
一方で2月18日の化学工業日報という業界紙に 『テルモ、6回接種注射器、開発着手 』という記事がありました。
『FNシリンジは薬液がほとんど残らない構造。1瓶から6回分取れることが期待されるが皮下注射用で筋肉注射を想定していない。針を長くし筋肉注射に使えるように対応する。』 (要約)
日本の代表的な注射器メーカー2社のうち、ニプロは月産数百万本の増産準備に入ったが出荷は9月以降。テルモはこれから改良型を開発するという話。1瓶から6回接種できる注射器は世界中で奪い合いとなっているそうで、大量輸入は期待できず、テルモの改良型の完成時期と生産量が分からない現状では、しばらくの間入手できるのはニプロの月産50万本だけとなるようです。6回採り注射器の調達について河野大臣は、
「何とかしたいと思っているが今のところ意気込みだけだ」
とコメントは絶望的です。
すでに始まっている4万人への先行接種はテストランで、ほどなく医療従事者470万人への接種が始まります。おそらく使われる1瓶6回採りの注射器はニプロの月産分50万本で、1人に2回接種ですから25万人分です。470万人から25万人を引いた残りの445万人は1瓶5回採りの注射器を使うことになります。
1瓶6回採りの注射器なら445万人に接種できる量でも5回採りの注射器では370万人にしか接種できない計算です。注射器の違いにより差し引きなんと75万人分、ワクチン輸送機3機分以上が丸々消えてなくなるのです。これは医療従事者470万人の話で、当初4月初頭から始まるとされていた(河野大臣は4月中に開始と1ヶ月遅れる発言をし始めている)高齢者3600万人への接種ではワクチン輸送機何十機分が無駄になるのか・・・怖ろしいような話です。
政府は昨年7月にファイザー社との間で基本合意を交わし、
「2021年6月中までに6000万人分のワクチンの供給を受ける」
と公表しました。これを受けて政府は1瓶5回の一般的注射器を大量に発注しています。もし長い交渉の過程で「1瓶から6回接種」というカウントに気づかず、確認もしなかったのなら呆れるばかりです。厚労大臣は「接種回数ではなく「人数分」での契約だから大丈夫」との弁明をくり返しました。しかし「1瓶から6回接種でカウントする人数分」だったらまったく大丈夫ではありません。そうではなくて「1瓶から5回接種で6000万人分」という契約だから大丈夫というなら慌てる必要はないのですが、政府はとても慌てているように見えます。なぜこんなマヌケなことになったのでしょうか。
[参考]「与太郎総理」と「尾身のご隠居」 笑えないコロナ対策滑稽噺
特殊な注射器なら1瓶から6回分採れるとファイザー社が発表したのが12月だったという報道もあります。ならば厚労省は12月には知っていたことになります。その12月、韓国は自国注射器メーカーに大増産を依頼しています。
日本の厚労省はどうでしょうか。日本で唯一特殊な注射器を生産するニプロ社にアプローチしたのは1月の末。在庫分10数万本の入手が2月初旬。増産の依頼はさらにその後です。これはテレビのインタビューでニプロの担当者が断言していますから間違いありません。遅い!のひと言では。これに限らず、この1年間、政府、厚労省のコロナ対応はあまりにオソマツです。そして厚労省ばかりか政治、行政の劣化を思わせる信じられないような事が次々と起きています。なぜ劣化が起きたのか、いま話題の総務省接待問題は象徴的です。
ごく一般的な常識では電波行政を所掌する総務省の最高幹部が東北新社からの接待を受けるはずがありません。そのメリットはゼロ、リスクは巨大です。優秀な彼らが、タメ口で話す馴染みの菅正剛氏や木田社長が子会社の役員だと知らなかったという脇の甘い話もありえません。総務省最高幹部たちは安倍・菅政権の振る舞いに慣れ、堕し、緩んだとしか考えようがありません。
内閣が平気で虚言をくり返し、事実を隠し、無理を通せば、官僚もこれに倣います。公文書を改竄し、統計数字をねじ曲げ、保存すべきデータを廃棄しました。そんな忖度が高く評価され人事に反映されるなら真面目に仕事するのはバカげています。安倍・菅内閣の悪しき振る舞いが官僚たちのモラルを破壊し、仕事を劣化させ、それが数々の省庁の失態や懈怠となって噴出しているのが今です。あまりに深刻な政治家の劣化、行政の劣化により大きな損失を被るのは国民です。
必要な注射器を調達できないことで、ここひと月で輸送機3機分のワクチンが捨てられます。貴重な税金で購入した7200万人分のファイザー社製ワクチンですが、いったい輸送機何十機分を無駄に捨てることになるのでしょうか・・・。
これはほんの小さな一例です。日本は壊れつつあります。今すぐにでも声を上げて政治家と官僚の劣化を止めなければ、とんでもないツケを支払わされることになりますよ。
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NHK『チコちゃんに叱られる!』が、最近、鼻につく。
うっとうしくていやな感じがする、どうも気に入らない、いじましい匂いが鼻に残って離れない。理由は四つ。
理由を述べる前に前段。筆者は番組の開始当初から『チコちゃんに叱られる!』のファンであった。制作しているのが同種番組『トリビアの泉』(フジテレビ)の主要スタッフが異動した先のフジテレビ子会社FCC(フジクリエイティブコーポレーション)だとは知っていた。だが、それさえも、まだ生命を長らえていた『トリビアの泉』を唐突に終わらせられたことへの意趣返しだと感じて好ましかった。さらに、岡村隆史のキャラクターをよく知っていて起用法が上手かった。岡村は優れたコメディアンだが「受け」と「回し」が下手で苦手である。スタッフはそれを補うために木村祐一を起用した。木村はNHK的見た目をしていないので、実物CG合体キャラ5歳児のチコちゃんにした。うまい。さすがNHK、金もある。もちろん取材の中味は『トリビアの泉』仕込みの徹底ぶり。諧謔に満ちていてすばらしい。ところがである。
鼻につく理由1。
番組パロディが頻繁すぎる。こういうモノは、刺身のツマに時々やればいいのであって、大根の飾り切りを毎回これ見よがしにメイン料理として出されても嫌になる。2月19日(金)の放送では、屋外のスケートリンクの凍らせ方を『ドキュメント72時間』の真似でやっていたが、真似していること自体が、もう鼻につく。凍らせ方を見せたいのか、もじりを見せたいのか訳が分からない。何だが、企画提案会議の様子さえ、目に浮かんでくる。
企画提案するディレクター(以下提案D)「スケートリンクはどうやって凍らせるか、というのはどうでしょう」
企画採用担当P(以下採用P)「そんなの、水撒いて凍らせるんじゃないの。ニュースでやるじゃん、お寺の境内にスケートリンク張りましたとか。」
提案D「さすがっすね。Pさん知ってましたか」
採用P「褒めても、ダメ。次いいの持ってきて」
提案D「ちょっ、待ってください。これをね、『ドキュメント72時間』をパロって、やるんすよ」
採用P「パロってか。そこまで考えてあるなら、先に言ってよね。パロディなら、面白いんじゃないの。ねえ(下請け会社Pに声を掛けて)〇〇ちゃん」
下請けP〇〇「そりゃ、Pさん、OKなら。Pさん、はずしたことないですから。じゃあ、飲みに行きますか。十番にね、いいとこあるんすよ」
筆者は爺ジジイだから、セリフが古いかも知れないが、内容は大体あっているだろう。出来たリンクを最後にすべるディレクターが転ぶことは予想が付いた。『ドキュメント72時間』風なレーションをしてくれた吹石一恵さんが「すべれてないやんか」と、おとしているところだけは、往時の『チコちゃんに叱られる!』思い出しよかった。
[参考]NHK「チコちゃんに叱られる」は人間の負の感情も満足させる
鼻につく理由2。
「私は流されない 唯我独尊ゲーム」がつまらない。芸能人が遊んでいる様子をただ流している番組ではないところが『チコちゃんに叱られる!』の真骨頂だったのに。これはまさしくただ芸能人と遊んでいる、僕が嫌いな『マジカル頭脳パワー」である。番組の趣旨と何が関係があるのか。知らない人に、このゲームを説明する。
「ある言葉から連想される言葉を次々と言ってつないでいく連想ゲームの逆です。連想しない言葉つまり 前の人が言った言葉と全く関係のない言葉を言わなければならないゲームです」
始まり。
「唯我独尊ゲーム!イェ~イ!」
「せ~の チコ チコ チコ チコ!」
「ドーナツ は 走る。」
「チコ チコ チコ チコ!」
「走る は 靴下×」
というゲーム。筆者は、「チコ チコ チコ チコ!」が聞こえてくると、「イラ イラ イラ イラ」するのでトイレに行く。
これを番組に関連づけるなら、こうするのはどうだろう。
「『唯我独尊ゲーム』で、間違ってしまうのはなぜか?」
チコ「人間の記憶は意味ネットワークで出来ているから」
意味ネットワークとは、ある特定の単語からの連想語や、一連の会話のなかにおける単語や動詞、目的語などのつながりのことを言う。つまり、記憶は使いやすいよう(早く思い出せるよう)に(以下例)ネコ→ほ乳類→クジラ→海のようにつながっているのです。これはそこら辺の心理学者なら誰でも答えられますから、後は調べて下さい。
コロナでロケする時間がないなら、放送時間を短縮すれば良い。東京本局の意向が、全国隅々まで行き渡るNHKなら可能だろう。同じくコロナ対策の一環では、働き方改革のコーナーが優れていた。CG チームが休みを取れるようにNHKの持っている素材VTRで構成するコーナーで、チコちゃんの後ろ姿しか映らない。
働き方改革は「子育て支援や社会保障の基盤を強化し、それが経済を強くするという新たな経済社会システム創りに挑戦する」というのがお題目の「働き方改革関連法案」の基礎となる考え方。労働者側には一見ありがたいこの考え方を実現するとの主張だった。だが、世の中からは、現在の労働力不足を補うために子育て中の世帯や介護中の世帯からも労働力を集めよう、出生率を上げて将来の労働力をできるだけ減らさないようにしよう、という経営側の狙いが見え見え。正体は「働かせ方改革」ではないか、と評判が悪い。それを利用して、NHKでは正面からは出来ない「働き方改革関連法案」を批判しようという狙いも込められていたように見えて、大変好ましかった。それに比べて……という話だ。
鼻につく理由3。
最後のチコちゃんと岡村のダンスがあざとい。よく、野球のピッチャーに「ボールを置きに行ってはいけない。打たれるぞ」と注意するが、このダンスは二匹目のドジョウ、三匹目のドジョウを狙って置きに行った企画だ。売りたいことが見え見えで新しい武器が次々登場する戦隊ヒーロー番組のようにあざとい。最近の視聴者は賢いからこういうあざとさには騙されません。
鼻につく理由4。
NHKの番組宣伝キャスティングが多すぎる。『チコちゃんに叱られる!』に出て宣伝したいドラマや。バラエティ番組は多いだろうが、番組が出してくるゲストは二線級と決まっている。こういう夾雑物を民放では昔、編成局がブロックして、本線の番組を守ってくれたものだ。でも最近の編成は何が番組にとって力になるかを判断できないので、自らねじ込んできたりする。編成の力を間違って使っている。
筆者は、民放とは一線を画す『チコちゃんに叱られる!』を支持していたのだが、いまや「ブルータス、お前もか」である。
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東京五輪組織委は何も変わっていない。東京五輪組織委の最大の問題はこの組織がオリンピズムの根本原則から逸脱した非民主的な組織であるということ。森喜朗氏が女性蔑視、女性差別発言で引責辞任に追い込まれた。しかし、最後まで森喜朗氏は自己正当化に終始した。引責辞任しながら記者会見で説明責任を果たすことさえ放棄した。
後任会長選出に際して「透明性のある選出プロセス」を掲げながら、選考委員会メンバーを非公表、検討委員会討議内容を非公表というギャグのような対応を押し通した。スポーツ報知は組織委の非民主的な議事進行について委員の声を紹介した。
「組織委は森会長、武藤事務総長ら一部の方が、ほとんどのことを決めて、理事はその決定事項を会議で聞かされているという流れ。せっかく、様々な分野から集まってきているのだから、もっと意見の交換をすることが必要だと思う」
森喜朗氏は2月3日のJOC評議委員会で「女性が入ると会議が長くなる」、「組織委の女性はわきまえている」と述べた。会議で上層部が提示した提案にケチをつけるなということなのだ。NHK番組に出演して、政府の施策に対する市民の批判の言葉を紹介したところ、「いちいちケチをつけるもんじゃない」と言い放った自民党幹事長がいたが、これと同じ構図。組織委会長森喜朗氏と事務総長武藤敏郎氏らが密室で決定する。組織委会合は密室で決定したことを追認するだけのお飾りと化してきた。後任会長選出も初めから結論は保持されていた。
その初めから決まっている結論を導くために密室の「選考検討委員会」が設置された。オープンな議論を行う予定はもとよりなかった。橋本聖子氏は森喜朗氏直系の議員。森氏、武藤氏の言いなりになるロボット会長が創設されようとしている。
その橋本聖子氏にパワハラ、セクハラ問題がつきまとう。2014年のソチ五輪で日本選手団団長を務めていた橋本氏が、閉会式後に開かれた飲酒を伴う打ち上げパーティーで「高橋選手に抱き付いてキスをした」と報じられた。2014年8月20日発売の「週刊文春」が報じたもの。現場写真もネット上で流布されている。
キス強要であれば刑事事件に発展する可能性もある事案だった。東京五輪組織委員会のイメージは地に堕ちている。その修復は不可能な状況だ。組織委員会の最大の問題はオリンピズムの目的を正しく理解していないこと。
オリンピズムの根本原則
1.(前略)その生き方は努力する喜び、良い模範であることの教育的価値、社会的な責任、さらに普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする。
2.オリンピズムの目的は、人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。
4.スポーツをすることは人権の1つである。 すべての個人はいかなる種類の差別も受けることなく、オリンピック精神に基づき、スポーツをする機会を与えられなければならない。(後略)
森喜朗氏は「コロナがどんな形でもかならず(五輪を)やる」と述べた。この発言がオリンピズムの根本原則に反することは明白。
「人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てること」がオリンピズムの目的と明記されている。「世の中がどうなろうと五輪を開催する」との姿勢は、オリンピズムの目的を全否定する暴言だ。この森喜朗氏が自分自身の責任について説明責任も果たさずに辞任した上で、自分が影響力を及ぼせる人物を後任会長に据えようとしている。
東京五輪組織委員会の姿勢に日本の主権者全体がNOを突き付ける必要がある。残念ながら東京五輪開催の気運は完全消滅したと言うほかない。
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本年3月に千葉県知事選挙、来年度には衆議院議員選挙が行われることから、政治家は普段以上にメディアの報じ方やパフォーマンスに敏感になっている。昨今大きな話題となったのが東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗元会長の女性蔑視と見受けられた発言に「抗議」の意味で、野党女性議員が約20人「白いジャケット」を着て議場へ入った「ホワイトアクション」もそうだ。
実は筆者が所属する千葉県議会においても国会議員によるホワイトアクションの報道後に立憲民主系の女性議員たちが同様のアクションを行い、地元紙などに報じられた。新聞では「抗議」という形でプラス要素で報じられたが、SNSでは真逆の反応が大半を占めていた。
他の政党や会派の言動に口出しするつもりもないが、思わぬ事態が起き、筆者は説明せざるを得ない状況となった。筆者は偶然にも立憲民主党系の女性議員がホワイトアクションを起こした日に白く見えるジャケットを着ており、期せずして記者たちから問われたが、筆者はそういう意図ではないと全く違うということを話し、記事には絶対に筆者の名前を書かないよう念を押した。
そもそも、何故このホワイトアクション自体が国民やSNSユーザーの癇に障るのか。筆者からすると「女性議員」が「女性議員」にこだわりすぎていることを象徴した言動だからに思える。「女性差別」と多く報じられ、それに乗じてパフォーマンスをしているように映ったからではないか。本当に白いジャケットで抗議する気があるのであればその日だけ女性たちで合わせて着てくるのではなく、常々着用しているか、例えば今議会はずっと白いジャケットを着用することなどが考えられるが、そうではない。
[参考]<あるある晩餐会>美人過ぎない議員・水野ゆうきが女性政治家の内情を暴露
登山家の野口健氏が蓮舫議員にツイッターで返信した「何でこんなに嬉しそうなのですか???」という質問がこの問題の本質をよく表している。元グラビアアイドルとしての性なのか、「注目を浴びている!」という表情を隠しきれておらず、浮ついたように見えた。
それに白いジャケットを着用した女性議員から男女共同参画についての質疑は議場であまり聞いたことがない。むしろ、筆者が男女共同参画を一番取り上げていると言っても過言ではないだろう。そもそも筆者は服装などで奇をてらうことは政治家がすることではないと考えている。政策的にもただ女性の数を増やすことには反対の立場だ。あくまでも女性の妊娠や出産等、女性特有の身体的な部分に対する環境整備と配慮を行った上で男女が平等に評価されることが本来のあるべき男女共同参画だと議場でも訴えている。
女性議員が「女性が女性が・・・」と言いすぎることは時にマイナスなのではないか。
「女性の活躍」というのは、これまで身体的なことや固定観念等で機会や仕事を失わざるを得なかった状況を転換し、性差のみならず固定観念・先入観を取り外して、「個」の能力を「公平」に評価することにより、能力や資格のある女性がおのずと社会で活躍し、自動的に数も増えてくる。「女性だけ」で何かをすることで自らが性の壁を作っているのだ。
自然体で良い。議場にて、言葉で訴えれば良い。
本質的なことや政策的なことが一切報じられずにそのパフォーマンスだけが報じられると「だから女性は・・・」と言われかねないことがまさに女性議員の筆者は悔しい。本気で抗議したい、と思って確固たる政策と意思を持ってアクションを起こした議員もいるだろうが、メディアの報じ方やネットで起こりうる反応も考慮に入れて、思慮深い言動が政治家には求められている。
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2月8日(月)から2月12日(金)に掛けてのNHK連続テレビ小説『おちょやん』は、作品として若干辛いところがあった。筆者の考える理由は2つ。劇中劇の扱いと、主人公の「ちよ」を演じる杉咲花の芝居である。
杉咲花の芝居については簡単に触れる。感情を込めた表現の芝居において「大声を出す」表現しかやらないことが、気になってきたのである。本当はもっと芝居が出来る俳優だと思うので、この欠点は演出家の問題で、いずれ解決するだろう。
もうひとつは、ちよ達が結成した鶴亀家庭劇(モデルは松竹家庭劇)の劇中劇がはいるようになったことである。しかも、それは劇団の存続を掛けて社長の判断が下る大事な公演で、しかも、嘗ての天海天海一座の看板喜劇役者・須賀廼家千之助(星田英利)が加わって、芝居にダメを出すと言う、ドラマ全体にとっても大変重要なシークエンスの芝居である。しかも、この劇中劇には難しさに拍車を掛ける要素がある。
劇中劇(Story within a story)とは、劇の中でさらに別の劇が展開する「入れ子構造」によって、ある種の演出効果を期待する技法である。『おちょやん』の場合は「テレビドラマの中の劇」である。もっと限定して言えば「ストーリードラマの中の爆笑喜劇」である。この、劇中劇が「爆笑喜劇」でなければならないことが劇中劇のクリアハードルをきわめて上げるのだ。感動や泣きの芝居であれば、劇中劇をワンシーン入れて観客のリアクションを編集でつなげば格好がつくが、爆笑の劇中劇の場合、劇自体が爆笑でなければならない。さらに、客が本当に笑って居なければならない。笑う芝居は泣く芝居より難しい。
そう考えたときに『おちょやん』の劇中劇は笑えないものだった。井戸から旦那が飛び出そうが、スッポン(花道に切られたセリ)から飛び出そうが、これは単なる現象であって、笑いではない。しかも、観客役の俳優達は本当に笑って居るように見えなかった。
爆笑劇中劇の参考になる映画が2つある。
[参考]映画「アフリカ珍道中」がただの荒唐無稽では終わらない理由
ひとつはフランク・キャプラ監督のコロンビア映画『陽気な踊子』(The Matinee Idol:1928)である。主演のベッシー・ラヴ(Bessie Love)は、田舎劇団の主演女優。南北戦争を扱った悲劇を上演し、聴衆の絶大な支持を得ていた。たまたまこれを見た大映画会社の重役は、この劇をニューヨークで上演しないかと持ちかける。夢のニューヨーク。しかし、映画会社の重役はこれを悲劇ではなく喜劇として上演することを目論んでいた。2回はいることになる劇中劇の変わり身が見事である。ちなみに、劇中劇の方だけをピックアップして榎本健一の座付き作家であった菊谷栄(きくやさかえ)が翻案劇「最後の伝令」を書いている。
もうひとつは、青柳信雄監督の東宝映画『雲の上団五郎一座』である。榎本健一が座長を務めるどさ回り劇団雲の上団五郎一座は、地方で一旗揚げようとしていた。その劇団が大当たりをつかむのが劇中劇化して取り上げられる『お富与三郎』である。『玄冶店(源氏店)』(げんやだな)の場面を、八波むと志の蝙蝠安、三木のり平の切られ与三、由利徹のお富さん、豪華喜劇役者陣で演じる。このシーンが見たくて、この映画、ずいぶん探していたが、VHSしかないのである。東宝はこれをぜひDVDにすべきだ、日本喜劇の財産だから。話が逸れたが、見る限り『玄冶店』の劇中劇はセットではなく本物の劇場で撮られている。もしかしたら、劇場中継の映像をそのまま挟み込んだのかも知れない。三木のり平は、のちに劇場の『玄冶店』は、「そりゃ面白かったよ」と語っているくらいだ。
『おちょやん』は、松竹新喜劇の看板スター浪花千栄子さんがモデルだけに今後も劇中劇がたくさん登場するだろう。何かの参考になれば嬉しい。
ちなみに、松竹新喜劇は浅草軽演劇の流れを汲む。チームワークの芝居である。浅草で赤ふんどしで走り回るようなひとりウケのギャグをやる者は、チームからはじき出されて、吉本に流れていった。というのは浅草軽演劇を知る人の話である。
ところで、今後登場する、花菱アチャコ役の塚地武雅は楽しみだ。彦爺役でかつて出演した曽我廼家文童さんの軽い芝居も大好きだ。もう一度違う役で出して欲しい。
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問われているのは森喜朗氏の個人的な考え方でない。森氏が女性蔑視、女性差別の発言を示したとき、JOC評議委員会に出席していたメンバーは笑っていた。誰も森氏の発言に異を唱えなかった。翌日、森氏が逆ギレ会見を行ったあとも森氏に厳しく対峙する者は皆無に近かった。
萩生田文科相に至っては「『反省していないのではないか』という識者の意見もあるが、森氏の性格というか、今までの振る舞いで、最も反省しているときに逆にあのような態度を取るのではないか」とまで言ってのけた。
茶坊主でももう少しまともな取り繕い方をする。自浄能力をまったく持ち合わせていない。森氏の会長辞任後、森氏に名誉職ポストが用意されるのかどうかも注目される。名誉職ポストが用意されるなら引責辞任の意味は消滅する。批判が沸騰して、その場を取り繕うだけのものになる。森氏は根拠のない偏見に基づいて女性を侮辱し、差別する発言を示した。それだけではない。
「私たちはコロナがどういう形であろうと必ずやる」と発言したが、その理由として「日本のアスリートのためだ」と述べた。
なぜ「全世界のアスリートのため」ではなく「日本のアスリートのため」なのか。五輪にナショナリズムを持ち込んでいる。JOC理事のなかで唯一、冷静な正論を提示しているのが山口香氏だ。山口氏は次のように指摘する。
「問題は日本国民であり、五輪を開催することでリスクを負うのは私たち日本国民だということです。」
この認識を踏まえて現状を
「厳しい状況にはあると言わざるを得ません。」
と述べた。
山口氏は五輪を開催することは可能だと判断する。
「多くの国が選手を派遣してくれると思います。つまり、選手を送り出す国にためらいはない」
と判断する。問題は、五輪開催でリスクを負うのは日本の国民であること。選手だけで1万人以上が入国することになる。コロナ感染が拡大し、相次いで変異株が出現しているなかで、全世界から多数の人が日本を訪れる。そのことによって変異株が日本に持ち込まれるリスクはきわめて高い。
毒性の高い変異株が出現するリスクがある。感染力の高い変異株が出現するリスクがある。ワクチンが有効でない変異株が出現するリスクがある。現在、日本では1日当たり100人以上がコロナ死している。年率換算で3万6000人を超える。自殺者が最大に増加した2003年でも自殺者数は年間3万5000人に届かなかった。コロナ感染が判明しても放置され、そのまま放置民死に至る事例が多数発生している。
政府の第一の責務は国民の命と暮らしを守ること。この基本を踏まえて、いま五輪開催を強行することが正しいのかどうかが問われる。五輪は巨大な営利事業と化している。この営利性=利権が五輪開催強行論の背景。森氏が辞任しても営利優先=利権優先の五輪開催強行論が引き継がれるなら組織の問題は解消しない。
責任を持つべきは政府。政府が国民の命と暮らしを最優先に考えて五輪開催の是非を判断する必要がある。森氏引責辞任を五輪開催強行の原動力に仕立て上げる愚を断じて許容してはならない。
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『千鳥のクセがスゴいネタGP』(2月11日(木)放送フジテレビ)が、面白い。第一に作っているスタッフが笑いを愛していることが画面全体から感じられるからだ。「笑いがそう好きでもないと思われる人」がビジネスライクにつくった番組(例『ボキャブラ天国』CX、『エンタの神様』NTV)は編集に愛がない。客が笑っている処だけを無理矢理集めて編集する。結果、なぜ面白かったのかわからなくなってしまう。
第二に(これを一番に挙げるのが正当だろうが)演者が皆、楽しそうに演じているからだ。ボケてツッコミ、ボケてツッコミ、ボケてツッコミ単発の笑いを繰り返す者や、大声を出すだけの者や、テレビで目立つことだけが目的であざとい演出を厭わない人たちが居る中で、今回の『クセスゴ』の演者は、大半が自分の芸を楽しそうに演じていて、見ていて気持ちが良かった。
番組は千鳥(大悟40歳・ノブ41歳ともに岡山出身)ノブの「クセがすごい」というツッコミ・フリのフレーズを頂いて、普段、正当に笑いをとりに行くコメディアンにも、それを封印して、クセのある笑いを見せてもらおうという趣旨である。
似た番組として『あらびき団』(TBS)が2011年頃まで放送されていたが(因みにこの番組を止めたのはTBSの大きなミスである。『キングオブコント』より大きく笑いに貢献しただろう)この番組はまだ、世の中に出てきていない知られざる奇妙ネタを紹介する番組であったのでその点が違う。
[参考]島田紳助の才能と長谷川公彦の現在
2番組の違いはさらに後述するとして、『クセスゴ』に話を戻す。『クセスゴ』は、出てくる演者の様々なクセスゴネタを見て、これは好き、これは嫌いだなど、視聴者に感想を言ってもらいながら、見てもらう番組であろう。
そういう意味で、筆者は一番好きだったのは空気階段(鈴木もぐら33歳水川かたまり30歳)のネタである。水川の姫が愛する王子が、魔法で犬に変えられてしまった。しかし、姫の愛が通じて犬は人間(鈴木もぐら)に戻る。
このネタを見て、筆者は笑いが止まらなくなったしまった。太っている方の鈴木は落語研究会出身だから、古典落語の「元犬(もといぬ)」を当然知っているだろう。昔、白犬だった男が願いかなって人間になる。だが、なったはいいが、つい犬の習性が出て失敗ばかりするという爆笑系のネタである。つまり、その反対。犬にされていたときの習性が抜けないのがギャグになるわけだが、ワンワンとかは当たり前だから当然やらない。抜けない犬の習性というのが「口の開き方」なのである。人間と犬の口の開き方は当然違うから、言葉を発するとき犬の口の開き方になってしまい、言うことがはっきりしない。この言葉のはっきりしなささが絶妙に上手いのである。僕は笑いには「(展開が)意外」と「(演技が)上手い」の両方が入っていないと絶対にダメだと思っているが、空気階段のネタにはこの「意外」と「上手い」が過不足なく入っていたのである。趣旨通りクセもすごいし脱帽。
さて、『千鳥のクセがスゴいネタGP』と『あらびき団』の比較である。両方ともネタをつなぐMCが居る。前者は東野幸治と藤井隆。後者は千鳥である。違いは千鳥はほとんど喋ら亡いのに対し、東野と藤井のMC部分の量は圧倒的に多い。
その内容も東野と藤井の方が、優れている。奇妙なネタをやる演者の行く末を厳しくも暖かく批評しながら、ネタのアイディアを出し、時にはぶった切る。あのMC部分は番組を見る楽しみのひとつでもあった。ところが、千鳥は喋らない。ワイプの中で2、3ことしか言わないというのがイメージである。ビートたけしでさえネタを見たらもっと話す。喋っているのに、編集されてしまっているという言い分もあるだろう。だが、編集されているのはつまらないから編集されているとも言える。編集はディレクターからの演者へのメッセージ、演出家からのラブレターである。編集後のVTR(つまりテレビで放送されたもの)には収録後の反省会などより、何倍もの有益情報が詰まっている。MC部分を単純につまらないからという理由で単純に編集するのは実は間違いなのだが、もし、つまらないからと言って編集しているのだとしたら、それは演出家が千鳥への愛がない証拠である。(愛があるから編集してあげる、という場合もあるから難しいのだが)
時間が足りないなら『クセがスゴくないネタ』をカットするべきである。たとえばキャイーンは懐かしいキャイーンそのもののマンザイだった。今回大変できの良かったかまいたちのコントは、浅草3大コントのひとつ『天丼』のパタンに見事に当てはまった優れたモノだった。オチも見事だった。かまいたちは出来る。だが、なのである。
千鳥は、魅力の多いコンビだ。スクエアでどこか抜けた親しみを感じるノブ、アウトローの魅力を持ち規格からはみ出た大悟、とり合わせ、座組も最強だ。かつて僕はある週刊誌の取材で千鳥をこれから大きくなる芸人として一番に挙げたことがある。予想が当たったことを自慢したいわけではない、千鳥にはもっともっと大きくなって欲しいのである。
もともとが『千鳥のクセがスゴいネタGP』なのだから、千鳥自身の『クセがスゴいMC』も見せて欲しいのである。このまま『クセのないMC』をささやかにやっていると、それは千鳥の芸人としての致命傷になる。
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面白い。笑える。上手い。そう思えるコント番組に久々にであった。フジテレビが1月3日の正月特番で放送した『新しいカギ』である。この番組が4月からレギュラー番組として毎週金曜日に放送されるという。コント好きとしては、嬉しい限りである。
この番組は今低迷しているフジテレビが覚醒するきっかけになるのではないかと、僕は思う。その理由を挙げて行く。
まず、この番組には、コント番組のレギュラー出演者キャスティングにおいて確かな目を持つプロデューサーがいる。
*チョコレートプラネット(長田庄平41歳 京都出身 :松尾駿38歳 箱根出身:吉本興業)
*霜降り明星(せいや28歳 東大阪出身:粗品28歳 大阪出身:吉本興業)
*ハナコ(菊田竜大33歳 千葉出身:秋山寛貴29歳 岡山出身:岡部大31歳 秋田出身:ワタナベエンターテインメント)
けっこう大切なことだが、若いし、出身地も全国に散らばっているし、プロダクションも混合だ。多様性は笑いに幅を与える。さらにもっと大切なことだがこの演者たちは皆、芝居(コント)が出来るのである。チョコプラは欽ちゃんが認めたほど、手足の裁きがきれいな芸人ある。和泉元彌の真似がさまになるのはそのお陰だ。ほかのメンバーもセット(舞台)に立っているときに、立ち姿が様になっている。
コント(芝居)の出来ない演者は何もせずに立っているときに棒立ちになってしまう。そのせいで、メインの動きとは関係ない余計な動きをしてコント(芝居)の笑いどころの邪魔をする。いらないしゃべりを足す。彼らにはそれがない。ところで、コント(芝居)という書き方をしているのは、コントと芝居は、結局は同じだと思っているからである。
フジテレビはコント番組をつくるのが大変得意な局であった。しかし2018年に『めちゃ2イケてるッ!』が終了して以来、その伝統は途切れた。あわせるように、全体の調子も落ちていった。だが『新しいカギ』のようなコント番組が復活すればそれをきっかけに再生するのではないかと思う。フジテレビはやはり『楽しくなければテレビじゃない』のである。
では、1月3日の放送から、それぞれのコントを見て行く。
「ドラマ「教場」の設定で、教官の粗品の出すお題を演じるコント」緊張という圧がかかっているので、すべっても何とか出来るという設定だが、演者達の上手なのは、その場の緊張という振りを芝居できちんと表現しているところだ、
「UzerEatsの配達員」連ギャグ。その1は、俳句でいえば「律儀なるUberEatsに冬の雨」という設定だ。ようやくやって来た配達の青年だが冬の雨でずぶ濡れである。家に上がり込んでハンバーガーをテーブルに置こうとするが、家人の永田は迷惑である。これこそ、コントの設定だ。この設定があれば、後は演者がどうにでも動けるのだ。マジですべって転ぶなど、笑いの神様も降りてくる。
面識はないのだが、台本を書いたであろう樅野太紀氏、酒井義文氏、谷口マサヒト氏、白武ときお氏のすばらしさである。連ギャグの一番目がありそうな設定で笑いが取れれば後は翔んだ設定(略語だらけのギャル・せいやの演じる太田光)でも自然にはいっていける、一つだけ、長田に注文。長田は普通の人の設定なのだからツッコミに類するセリフをしゃベってはイケない。普通のひとがその場に居たらどう嘆くかを考えて演じるべきだ。手なりでツッコむ(落としのセリフを言う)癖は直すべきだ。
「演歌歌手に番組終了の引導を渡すコント」せいやの独壇場。せいやは久しぶりに一人で演じて面白い逸材だ。ビートたけし以来というのは褒めすぎか。このコントではせいやに乗っけてチョコプラ松尾のお付きのヨイショが実に上手い
「ぶっとびの飛美男くん」女の子に優しくされたりすると、上がって(ホントに)ふわふわ浮いてしまうコント。アイディアのコント。やはり、飛美男役の松尾がうまく、宙に吊られて浮いてしまうところがおかしいが、それもこれも、粗品や女優陣が必要なとき以外は一切飛美男に目線を送ってはならないという規則を演出家がきちんと指示しているからのおかしさ。
「ボキャビルダー」マッチョの姿でやる言葉ゲーム。面白ければ時間を埋めるにはいいだろう。
「恋するせい子物語」美人の転校生に何とか失敗させてやろうと企むせいやのJK。だが、ことごとく失敗するという典型的な設定コント。ありきたりの設定だが、コント(芝居)が、上手いので面白くなっている。しかもせいやのJK役が、意外にも可愛い。オへチャだが可愛い。汚くない。これは、テレビでは大切なことだ。
さらに、イタズラが失敗したときのせいやのリアクションが、抜群におかしい。オチ(失敗)があって、次に来るリアクション、このリアクションをコントでは「受け」と言うが、このウケがきちんと出来る人を、ぼくは、今の芸人では明石家さんましかしらない。さんまは他人のトークを聞いた後、膝を折って崩れ落ちる、アレが「受け」である。
最後に、番組に対する筆者の希望も書いておこう。
今回はCOVID 19の影響でハナコの出番はほとんどなかったが、彼らが、留守を守った他の演者の精神をしっかり受け継いで演技してくれることを望む。
これは、余裕が出来てからでいいから、使って欲しい演者が居る。座組の相性などあるだろうから、それがクリアされるならばでよい。かもめんたる(岩崎う大 槙尾ユウスケ)。現メンバーより年上なのが難点だ。空気階段(鈴木もぐら 水川かたまり)。彼らも霜降り明星より年上だ。インパルス板倉俊之。もう43歳か。ゲストでたまに、なのかもしれない。
生放送をして欲しい。出来れば舞台公開で。なぜなら、テレビの優位はこれから同時間性しかなくなるからだ、ドラマやリアリティショーでネットメディアがいくら、視聴者を持っていこうが、今、その時間に違う空間でものがおこなわれている状態をつくり安いのはテレビだからだ。ネットでもやれることだから、ネットがやらないうちにテレビは同時間性を追求するべきだ。
生のコント、しびれますよ。
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綾瀬はるかとサンドウィッチマンンの共通点は好感度ランキングで、男女それぞれの一位をとっていることだ(ランキングサイトRANK1調べ)
後に述べる録画してある番組を見ようとしてテレビを付けたら、たまたま再放送していたTBSのドラマ『義母と娘のブルース』に、目が釘付けになってしまった。
「これはコントじゃないか」
コントじゃないかとは、筆者のようなコント作家にとっては褒め言葉である。貶しているのではない。状況設定、キャラクター設定、場所設定ともに、面白いコントになる要点をすべて備えて居る。しかも、芝居の出来る役者が、本業として全力でやっている。綾瀬はるかの演じるシングルマザーで義母の岩木亜希子(33)役は、能面のような表情で、事務的で格式ばった口調で話す。恐らくありえないに近い人物造形だが、そのありえなさを綾瀬の演技力で越えている。森下佳子の脚本は桜沢鈴の原作まんがを役者が演じるために、きちんと変換し昇華している。うじゃじゃけた、コントまがいの、あるいは、まんがの再現ドラマかと思うような作品もある中で見事なものである。たとえばこんなシーンがある。
傾いた麦田ベーカリーの跡取り息子、章(佐藤健)が、店を建て直してくれた綾瀬はるかに、意を決してプロポーズする。
章はモノを知らないおバカの設定である。「プロポーズを聞くのに先入観を持って聞いてはいけない」という趣旨のことを綾瀬に言おうとして、先入観と言う言葉を間違えてしまう。セリフを写し取ると以下のようになると思う。(ドラマを知らない人のために役者名で表記する)
夜8時過ぎの公園、遠くに街の明かりが見える。ベンチにきちんと膝を揃えて座っている綾瀬はるか。おちつかなげに立っているジャンパー姿の佐藤健。
健「プロポーズとか聞くとき、そういうとき、いけないのは、そうに…」
はるか「(パっと、健の言葉をとって)先入観のことですね」
健「そう。そう」
これだけで、はっきりと、健が「先入観」と、間違えた言葉が「挿入感」と分かるのである。笑う。これが、どうして成り立ったのか。
[参考]
脚本家の書いたセリフがそうだったことが、まず考えられる。しかし、セリフを書くときに、多くの脚本家は括弧書きで(パっと、健の言葉をとって)のように動きを指定することをためらう。そこは、役者の工夫の領分だからだ。役者に失礼だからだ。
役者自身のやりとりの工夫。リハで考えたこともあろう。演出家の指示もあろう。最終的にOKを出したのはディレクターである。筆者は、ドラマをあまり見ないので、人気の『義母と娘のブルース』を、見ていなかった、しかし、ワンシーンだけで、何となく設定が分かるのは、このドラマの力である。
さて、冒頭に述べた「録画してあった番組」とはフジテレビの2020年12月29日(火曜日)放送、フジテレビの『ただ今、コント中。』である。
コント番組不遇の時代が長く続いいていたが(私見ではタモリの日本テレビ『今夜は最高!』終了(1989年)以来、それは、続いていた)ようやくコント番組の復活が見られるようになってきた今日この頃、サンドウィッチマンのやる番組に注目した。前回8月放送の時も評論を書いて、「スタッフを萎縮させる」などのお叱りをいただいた。文章にすると固定化するからそれも分かる。筆者の評論など、全く無視して、若い人は我が道を行って下さいとの希望もあった。ただひとつ思うのは「コントはオワコン」などと言われたくないということだ。落語は好事家のための伝統芸能になってしまったが、コントが、終わったコンテンツ(オワコン)になるのは、まだ早いだろう。
(1)J.Y. Park店長(富澤たけし)に、おばたのお兄さんも加わって、松井玲奈のバイト志望者を面接する。よく似ているJ.Y. Parkが2人になって強力。松井を案内してくる店員のかまいたち濱家は、なぜ面接会場に入れるのか、個人情報の保護が叫ばれる今、私的なことも聞かれる面接会場に余計な人は入れないのは常識だ。と堅いことを言ったが、面白ければ店員の濱家が中にはいる理由だけ考えてあげれば良い。J.Y. Park役へのツッコミがどうして欲しければ、濱家が覗いていうことも考えられる。これを考えるのはスタッフの仕事。
(2)中継される動物園。惜しい。アナウンサーが中継しているので、そのとおりに、動かなければいけなくなってしまう動物たち。なぜ、動物はムチャぶりのそのとおりに動かなければならないのか。昔はやったこの手のコントでは、その動物園の動物が人間が演じているニセモノなので、バレないように動物らしくしなければならないという設定を入れたものだ。
(3)ゲーム実況の富澤。(2)と構造は同じであるが、設定が新しい分、こちらがずっと上。
ところで、コントの要諦は演者が全力で、真剣に、役に憑依されたように演じることだ。一生懸命ふざけるという方法もあるが、それは年取ってからやれば良い。
(4)テロの戦士は実は全員が味方だった。変わり身が見どころの芝居が必要なコント。同じことの繰り返しなのでエスカレートが必要だ。僕は「3回目は変えろ」と習った。
(5)芸能人の保釈。おもしろい。実はバラされてしまう芸人の隠された不祥事がもっと有名だといい。大物演者向きコント
(6)ヤマンバグループ(ゆきぽよ、3時のヒロイン福田、かなで、かまいたち山内)の仲間になりたい浜辺美波。今回のコントで最もおもしろかった。浜辺美波初め、出演者全員が役に憑依しているからだ。山内のメイクからも本気度が分かる。こういうコントに僕はやられる。
(7)ガラケーの妖精。おなじみのこびとのガラケー妖精を演じる伊達と富澤、さすがのコンビネーションである。「いつもここから」のネタを演じたサンドウィッチマンに吹き出す、濱家のリアクションも適量。
(8)ダテちゃんマン。決めた段取り通りにやり過ぎたかな?段取りからずれていきたいなあ。ベルトコンベヤを伊達に内緒で[打ち合わせずみの内緒にしないと危ないよ)速くするとか。
(9)たまに芸能人が来るラーメン屋。筆者が、ネットに書いた評が読まれていた。皮肉でも何ともなく、少しでも笑いになっていたら嬉しいです。
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五輪は誰のもの。五輪は政治権力の私有物でない。スポンサー企業の私有物でもない。アスリートの私有物でもない。五輪は国民のもの。なぜなら五輪開催費用を負担するのが主権者である国民だからだ。東京五輪は「コンパクトな五輪」として招致活動が行われた。1990年以降、日本経済は長期停滞を続けてきた。
しかし、これもウソ。ウソで塗り固められた「悪魔の五輪」。
2012年12月に第2次安倍内閣が発足して自称「アベノミクス」が展開されたが結果は無残なものになった。2013年1~3月期以降の日本の実質GDP成長率(季節調整済、前期比年率、%)の単純平均値は+0.4%。東日本大震災、フクシマ原発事故が発生して日本経済が暗闇に包まれた民主党政権時代でも実質GDP成長率単純平均値は+1.6%だった。
アベノミクス下の日本経済がいかに悲惨な状況であったのかを示す客観的データだ。人々の暮らしに直結する最重要の経済指標は一人当たり実質賃金。一人当たり実質賃金は2013年7月から2020年7月までの7年間で8%も減少した。日本は主要国で最悪の賃金減少国になった。多くの中間層が下流に押し流された。
国税庁の民間給与実態調査によると、1年を通じて働いた給与所得者の21%が年収200万円以下、55%が年収400万円以下である。格差は拡大し、市民は日本経済の長期停滞にあえいできた。安倍内閣、菅内閣が推進する労働市場の規制改変は、大資本の労働コスト削減要請に応えるもの。「働き方改革」ではなく「働かせ方改悪」が推進された。
長時間残業の合法化
定額残業させ放題プラン労働の拡張
低賃金外国人労働力の輸入拡大
正規・非正規格差の温存
解雇の自由化
などの措置が推進されてきた。働く市民にとって何よりも重要なことは、時間当たり賃金の増大と雇用の安定だ。しかし、最低賃金の引き上げはほとんど行われていない。最低賃金を全国一律で1500円に定めれば、年間2000時間労働なら年収300万円が保障される。現在の最低賃金は792円(/1時間)。2000時間働いても年収は158万4000円にしかならない。
さらに庶民の生活を圧迫しているのが消費税大増税。所得税は所得の少ない個人の課税額がゼロになるが消費税は違う。所得の少ない人は収入の全額を消費に充てざるを得ない。そこから根こそぎ10%のお金が巻き上げられる。10億の収入がある人が1年に1億円消費するとき、収入に対する税負担率は1%になる。庶民を苦しめ、富裕者に極めて優しいのが消費税の特徴だ。
1989年の消費税導入以降、消費税で400兆円のお金が巻き上げられた。その一方で法人税が300兆円、所得税が275兆円減免された。消費税収のすべてが富裕層と大企業の減税に回された事実を多くの国民が知らない。菅内閣の感染拡大推進策によってコロナ感染が爆発した。多くの庶民が、コロナに感染しても入院も宿泊療養施設での保護もされず、放置され、死に至らしめられている。
7月までにコロナが収束する可能性はゼロ。主権者である国民の8割以上が2021年の五輪開催に反対している。日本が国民主権の国であるなら、五輪についての結論は確定している。米国もバイデン政権が誕生してコロナ感染抑止を最優先課題に位置付けた。米国は五輪に参加しないと思われる。速やかに五輪開催中止の決定を行うべきだ。
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