主婦なら誰でも知っている情報を得意げに紹介するテレビ番組がなぜ存在するのか?

エンタメ・芸能

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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「君がどんな食事をしているか、言ってくれ給え。そうしたら君がどんな人間か言ってあげよう」

テレビ界では権威のあるギャラクシー賞の実施主体である放送批評懇談会の月刊誌「GALAC」が、演出家・鴨下信一の『食べるドラマ論』掲載している。大変興味深い内容なので紹介したい。
ドラマ中での食事シーンが減ったのは、テレビからホームドラマがなくなったからであろうと筆者は考えている。しかしながら、ホームドラマがなくなって医者と刑事ばかりのドラマになったとしても、役を演じている人物はどこかで何かを食べているはずだ。話の展開を早くするためとはいえ、それ(=食べている場面)を省くのは果たして正しいのか。
鴨下氏は次のように述べる。

「社会派ドラマでも、SFでもホラーでもドラマのリアリティを支えるのは太顔を見せるホームドラマ的シーンだ。そこにあり食事のシーンはドラマ全体の再生に繋がる」
「食事の量を表現するのは食器の大きさだ。分かっていたからとび職一家の食事シーンで大ぶりの飯茶碗を用意した。すると脚本家の向田邦子さんに叱られた。飯茶碗ではない、漬け物を盛る丼が小さすぎる。大きな丼に山盛りの漬け物、しかも2つ」

向田さんが書いた「寺内貫太郎一家」で、筆者は印象的なシーンを覚えている。夜中に起き出してきた貫太郎が台所に行く。カツ丼を食べるような大どんぶりを持って、蛇口をひねって水をなみなみと注ぐ。貫太郎は、息をつくまもなくすべてを飲み干す。セリフにはなかったが、巨漢の貫太郎が糖尿病なのだと、一瞬にして理解した。
かつて舞台上で飯を食うだけで笑いの取れるコメディアンがいた。
ちゃぶ台にめざしとたくあん、大きな飯ビツとしゃもじ。持ってきて舞台中央に座る、茶碗は小ぶりである、この男に似つかわしくないほど小ぶりである。
【参考】<日和っても視聴率はとれない>名優・佐藤浩市が感じるテレビドラマの窮屈さ
飯を持って、祈って、頂きます・・・は言わないが両の手を合わせて食べ始める。めざしも食う。たくあんも囓る。飯も食う。時々客の顔も見るが目は合わせない。飯を食う、食い終わったと見せてお替わりを食う。
めざしも食う、たくあんも囓る。そうそう、アルマイトのやかんに入った水も飲む。お茶ではなく水が入っているのだと見るものは感じる。会場は爆笑である。全部平らげて『ごちそうさまでした』と舞台を去る。大拍手。これを演じたのは萩本欽一である。

鴨下氏「テレビの制作者たちは、スーパーはもちろん、デパ地下にもコンビニにもちゃんと行っていないじゃないかと思われることが多い」

コンビニはテレビ局の中にもあるから、行っているだろう。だが、鴨下氏の言うのは「ちゃんと行っていない」ということだ。自分の必要なものだけ買って店内を観察していない。
ドラマでもそうだが、主婦向けの情報番組をつくっている制作者もスーパーに行っていない。モノの値段に敏感であるべき報道の人もスーパーに行っていない。だから、主婦や主夫なら誰でも知っている情報を得意げに新情報だと紹介してしまうのだろう。主婦や主夫に情報感度で超されているのは情けないことだ。
冒頭に掲げた警句は、ブリヤ・サヴァラン『美味礼賛』である。
 
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