<多様性なきバラエティ?>80年代のMANZAIブームと現在の芸人ブームの明らかな違い

エンタメ・芸能

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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80年代の MANZAIブームはまさしく「すさまじい」とか、「怒濤」とか「狂乱」とかの言葉で形容されるにふさわしい状況だった。ただし、今の芸人ブームと比較すると当時はある秩序があったように思うが、そのことはのちに述べる。
NHK BSプレミアム「アナーザー・ストーリー」で「空前の漫才ブーム1980ツービートにB&B笑いに人生かけた男達」が放送された。
このブームの周辺にいたひとりとして備忘録的に当時のことを記しておく。
第1回の『THE MANZAI』は、1980年4月1日に放送された。マンザイではなくアルファベットのMANZAIを使っているところに番組の志が表現されている。
出演はツービート(ビートたけし、ビートきよし) / B&B(島田洋七、島田洋八)ザ・ぼんち(おさむ、まさと) / 島田紳助・松本竜介(島田紳助、松本竜介)星セント・ルイス(星セント、星ルイス) / 中田カウス・ボタン(中田カウス、中田ボタン)横山やすし・西川きよし(横山やすし、西川きよし)であるが、筆者のセント・ルイス、カウス・ボタンに対する印象は薄い。
司会を廃し、ネタを純粋に見せる形を取ったが、その間をつなぐのがポップな出演者紹介のVTRである。MANZAIのできと共に、このおしゃれさはあらゆるメディアのなかでテレビが当時の最先端メディアであることの証しでもあった。
【参考】明石家さんま「たけし、さんま、所の3人が一斉にやめないと後が出てこない」
現在に視点をおいて、当時のコンビを俯瞰してみると、コンビの片方が強烈な個性を持っていることで成り立っていることがよく分かる。ビートたけし、島田洋七、島田紳助、ぼんちおさむ、横山やすし。後にはここに西川のりおが加わってくる。
ビートたけしはビートがテンサイ(天才)の意味であるように、まさしく天才的にネタが切れる。
島田洋七はテンポの速さが身上である。もちろんタダ早いだけでなく、タイミングが良い、ネタ自体はたいしたことがなくてもリズムで爆笑を取る。
島田紳助は東京ヴォードヴィルショーに入団するか、マンザイをやるかで悩んだそうだが、B&Bを見てから、結局マンザイを選んだと筆者に話してくれた。紳助は、トークの天才である。話の中身が面白いことでは随一。
ぼんちおさむは、頭の構造が破壊的である。ジミー大西の師匠がつとまる人物である。考えるネタは常人には想像もつかない。
西川のりおは、頭の回転が速い。速すぎて、普通の人より先に行ってしまう。
横山やすし。この人はマンザイをやるために生まれてきたような人物である。発するアドリブは、すべてが面白く、ひとこと一言を聞き逃がさないように注意深く聞いていたいという人であった。
それぞれの相方は、話し相手になっていさえすれば良かった。唯一相方をコントロールしていたのは西川きよし。やすしのコンプライアンス係である。このコンプライアンスが絶妙であるからMANZAIのトップに君臨し続けられたのであろう。
【参考】<日本コント史の裏側>「ひょうきん族」と「全員集合」は視聴率争いなどしていなかった
MANZAIブームの落とし子の一つとして生まれたのが「笑ってる場合ですよ!」(フジテレビ・1980〜1982)である。「笑っていいとも」の露払いをしてお昼の時間帯のバラエティ視聴という土地を耕した番組である。
「笑ってる場合ですよ!」の名タイトルを考案したのは、放送作家の永井準(故人)。「笑ってる場合ですよ!」などという日本語はない、と編成に言われたが押し切った。
全体とおしの司会には、人気の点で頭一つ抜け出していたB&B。コンビ名を染め抜いたTシャツがバカ売れした。レギュラーにザ・ぼんち、ツービート、紳助竜介、春風亭小朝(のちに明石家さんま)、のりお・よしお。全体のイメージに小朝はなじまなかった。
新人放送作家だった筆者はツービートの火曜日と、紳助竜介の水曜日を担当した。物議を醸したツービートの「ブスコンテスト」のオーディションに山田邦子がやって来たが、他のコーナーに出演するよう説得したことを覚えている。
他のレギュラーには、座長の柄本明を除く東京乾電池(ベンガル・綾田俊樹・高田純次・小形雄二)と大橋恵里子。毎日のニュースをコントにした。岸田国士戯曲賞の岩松了もコントを書いている。
さて、現在の「芸人」という存在はあらゆるジャンルのテレビ番組に侵入し、テレビ全体を席巻した感があるが、当時はどうだったのだろう。
確かに、数多くの番組に彼ら漫才師は出演していた、しかし、番組ジャンル毎にはしっかりと濃淡があって、硬派の番組もまだまだ存在していたのである。番組に多様性があったと言ってもよいだろう。
 
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