<24時間テレビ>清く正しく美しい障害者を創る「感動ポルノ」という嘘

テレビ

高橋維新[弁護士/コラムニスト]
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2016年も「24時間テレビ」(日本テレビ)が放映された。
今年は、NHK・Eテレが「24時間テレビ」の裏で障害者を感動と結びつけるような世間の扱いに疑義を唱える番組「バリバラ」を放映しており、ネット上で大きな話題になっている。
これと合わせて、障害者を使って感動を無理矢理呼び起こすような画像や動画のことを指した「感動ポルノ」という言葉もネット上に広まっている。
この「感動ポルノ」という言葉を作ったのは、オーストラリアのコメディアンでジャーナリストであるステラ・ヤング氏といわれる。氏が「ポルノ」というネガティブなイメージが強い単語に込めた意味は、「障害者が、それを見る者が快を得るための消費財としてしか扱われていない」というものだった。
【参考】「バリバラ」と「解説スタジアム」が示した地上波テレビの可能性
それにしてもこの「感動ポルノ」という言葉は言い得て妙の表現であると考える。「ポルノ」そのものが持つ本質が、「感動ポルノ」にも通底しているからである。
ポルノは、ステラ・ヤング氏が指摘するようにそれを見る者が快を得るための消費財である。だからこそ、見る者が快を得やすいような構造になっている。つまり、「嘘」が混じるのである。
ポルノには、現実には存在しないような魅力的な異性が多数登場する。彼女らの全員がいとも簡単に恋愛関係に落ち、いとも簡単に性行為に応じる。玄人しかしないような過剰な性的サービスをしてくれる。あまつさえ、強姦に遭っているのに性的快感を感じているかのような描写すら珍しいものではない。
これらはすべて、現実には生じない「嘘」である。現実には生じないからこそ、ポルノを見た人たちは、現実の「やるせなさ(=自分の「妄想」がなかなか実現しない歯がゆさ)」をしばし忘れて快に浸るのだ。
いわば「感動ポルノ」も同じ構造である。障害者が努力している姿に感動を覚えるというのは、「嘘」の障害者像を前提に成り立っている。車イスがないと移動ができない人にとっては、車イスを使って移動することは当たり前のことでしかないのだが、そこに「たゆまぬ努力の成果」などという修飾語を乗っけることで、大変なコトであるかのような「嘘」に仕立て上げる。
【参考】<感動ポルノ?>障害者を笑い飛ばせる社会を目指す過ち
感動を呼び起こさせるためには、障害者に清く正しく美しい存在であってもらわなければならないから、ピアスを開けてはいけない。人の悪口を言ってもいけない。常に家族や周囲に感謝していないといけない。山登りが嫌いでも、山に登らないといけない。
普通の人であれば、ピアスを開けることもあれば、親の悪口を言うこともあるし、山登りよりテレビゲームが趣味のインドア派の人もいるだろう。障害者もそういう意味では普通の人であって、健常者と同じレベルで実に様々な人がいるのである。
しかし、「感動ポルノ」では、こういう点を押し込めて、上記のような「清く正しく美しい障害者像」という「嘘」が描かれ、伝えられる。
これが「嘘」だということを理解して、障害者も普通の人と何ら変わりはない「普通の人」であるということを理解することが、ノーマライゼーションの出発点であるはずだ。
 
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