<笑いは「パターン認識」>日本人は米英のすぐれた政治コメディを見るべき
茂木健一郎[脳科学者]
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<メタ認知の難しさとその意義>
自分自身を「外」から見ているかのように客観的に見つめる「メタ認知」を高めることは、案外むずかしい。「鏡」というメタファーが使われがちだが、私たちの脳は鏡のように視覚的情報が十分に提供されている時でさえ、認識することは難しい。ましてや性格のような抽象的属性においてはなおさらである。
自分自身をメタ認知することの難しさは、暗黙知の構造にある。自分にとって当たり前のことは、それを特別なことだと認識することが困難なのだ。その「差異」に気づくためには、往々にして他者とのすれ違いが必要になる。
変人は、自分が変人であると気づいていないことが多い。
他人から見ればヘンなその人の思考、行動のパターンも、本人にとっては当たり前のことが多いからだ。逆に「私は変人です」と強調する人は、変人ワナビーで、変人にあこがれているだけのことが多い。
ある文化の中で当たり前だけれども、他の文化から見るととてもユニークなことにその文化の人が気づくことも難しいことが多い。子どもの頃からその文化の中で育っていると、他者から見た「差異」に気づきにくいのである。
【参考】オタク魂を持っている人は人間として成長する – 茂木健一郎
自身のメタ認知を通して、自分のユニークさに気づくという認知プロセスは、このように案外むずかしい課題であって、そのプロセス自体が創造的であるということができる。メタ認知の階段を上がることで、私たちは自分運用のスキルを劇的に上げることができるのだ。
個性は欠点と長所が表裏一体になったものだが、自分の欠点をメタ認知することで、それだけで欠点に「パッチ」を当てることができる。自分というシステムの運用の強靭性が高まり、他人とのコミュニケーション力も高まる。その意味でメタ認知は一つの「革命」と言ってもいいほどの大きな変化をもたらす。
<笑いのメタ認知>
ユーモアのセンスは柔軟な思考をする上で不可欠である。とりわけ、自分自身のダメなところ、欠点を笑いに変えることは、学習、コミュニケーション、創造性のために欠かせない。
笑いのメタ認知は人を寛容にする。自分の欠点やダメなところを隠そうとする人ほど、他人に対して攻撃的になる。劣等感を乗り越える最も良い方法は、それを笑いに変えてしまうことである。そのことで人は学習をする準備をすることができるのである。
自分の国の政治的指導者や、政治文化について批評的に笑いを提供することは、民主主義にとってはとても重要で、そのようなインフラがなければタブーなき議論はできない。ユーモアは、政治に欠かせない潤滑油なのである。
政治家に対するコメディアンの批評的笑いは、拡大された自分自身に対するメタ認知だと言える。なぜならばそのような政治家を選んだのは集団としての「自分たち」なのであり、政治家の欠点は、自分たち自身の欠点だとも言えるからである。
【参考】<「やる気」は不要>「やる気が出ない」を言い訳にして何もしない人たち
成熟した政治的ユーモアにおいては、他国の文化や他国の政治家を笑うことは、だから、価値が落ちる。それは自分たちのことではないから、メタ認知としての自己批評に欠けるからである。むしろ、自分たちの欠点を棚に上げた他者攻撃であることが多い。
もっとも、今のアメリカのコメディ文化におけるロシアのプーチン大統領への言及のように、自分たちの指導者であるトランプ大統領に対する批評性の一部として他国の政治家が登場する場合は、この限りではない。
コメディも一つのパターンであり、たくさんのサンプルを見ることでパターン認識することができる。政治的批評に基づくコメディが主要メディアではほとんど皆無の日本だが、アメリカやイギリスのすぐれた政治コメディを見ることで、それがどのようなものか、パターン認識することができるだろう。
<批評的コメディに不可欠なパターンのいくつか >
笑いは「パターン認識」であり、社会批評的な笑いをつくるといっても、いくつかのパターンをあらかじめ頭の中にいれて置かないとできない。そのためにはいくつも笑いのサンプルを見て、そのかたちを叩き込んでおく必要がある。
しばしば用いられるのは、差別や偏見を持つ人物を敢えて描いて、その周囲の、良識のある人たちとのすれ違い(しかもそのすれ違いに本人は気づかない)というかたちを使うことである。英国のコメディアン、スティーヴ・クーガンはしばしばこのかたちを用いる。
スティーヴ・クーガンは、「アラン・パートリッジ」というキャラクターを演じて、人々が往々にして陥るジェンダーやエスニシティについての偏見を敢えて表明して見せる。それが「すべる」ところを見せて、逆にそのような偏見を無毒化するのである。
デイヴィッド・ウォリアムズとマット・ルーカスのヒット作「リトル・ブリテン」でも、差別や偏見を持つ人物を敢えて描いて、その人がコミュニティの中で浮いてしまうところを描く。そのようにして、差別を相対化するのである。
たとえば、料理コンテストで試食している夫人が、その料理をつくったのがジェンダーやエスニックの少数派の人だと聞いた瞬間、ものすごい勢いで食べたものを吐いてしまうというスケッチがある。『リトル・ブリテン』は、そのようにして差別や偏見の滑稽さを描くのである。
『リトル・ブリテン』では、車椅子の青年を世話する人や、村で一人のゲイの若者といった設定を用いて、偏見や差別と、現代の良識のすれ違いを短いスケッチで見事に描く。その背景にあるのは個人の尊重に対する現代的感覚であって、それなしにはコメディは成立しない。
(本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)
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