<道徳性の暴走>木下優樹菜のタピオカ店騒動

社会・メディア

宮室信洋(メディア評論家)

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2019年11月18日、木下優樹菜が活動自粛を公表した。これは木下優樹菜の姉とその友人とのタピオカ店店長との間でのトラブルに対し、木下優樹菜がTwitter上のDM(ダイレクトメール)でタピオカ店店長に対し恫喝をしたとして騒がれているものだ。

しかしこの騒動もまたやたらと一方的な展開である。この経過の初期を見ていたものならわかることだが、木下優樹菜の姉は Instagram に長文を投稿している。このサイトにもあるように、 木下優樹菜姉妹側の言い分は簡単に見ることができる。

簡単にまとめれば、元々、木下優樹菜の姉のママ友であったタピオカ店店長は、やたらと不当に木下姉妹をタピオカ店経営に利用したということだ。妹である木下優樹菜も宣伝に使われてしまって姉としては問題視せざるを得ないのは当然であろう。一方の主張を鵜呑みにはできないとしたとしても、この騒動は、簡単に、一体誰が悪いのか迷うようないざこざを見てとることができる。

世論やネット世論は一方的なものである。特には何を持ってしても「恫喝は悪い」と一言で済ませようとする意見が多い。何が木下優樹菜をそんなに怒らせたかということを考える意見は皆無と言っていい。しかし、姉への仕打ちや木下優樹菜というタレント商品を利用したことを考えれば、木下優樹菜の怒りは妥当であるし、厳密に考えてしまえば、木下優樹菜への宣伝料は結構な額になるだろうし、それは所属事務所を通してのビジネス上の取引となることは当然である。よって事務所が怒ったとしても当然なことである。

ネット世論の重要な引っかかりはこの所属事務所というところに1つあった。木下優樹菜の所属事務所はバーニング系事務所プラチナムプロダクションであるので、芸能界で大きな権力を持つネット世論のある種のキーワードでもある「バーニング」という名前に1つのネット世論の引っかかりがあったのである。

また木下優樹菜のイメージも元々微妙なバランスにあった。木下優樹菜のブレイクはいかにもフジテレビ「ヘキサゴン」という番組であり、いわゆるおバカキャラとしてブレイクした。またヤンキーキャラを持っており、FUJIWARA藤本敏史と結婚してからは、実はしっかりしたヤンママキャラとして、好感度夫婦のイメージをウリにしていた。

元々微妙なバランスでの高い好感度と、それへの反動によるスキャンダルでのバッシング、そして何を言っても最終的には否定されてしまう、何を言っても「恫喝が悪い」の一言で叩かれてしまう、この現象はまさにベッキー騒動を思い起こさせるものである。数年経って落ち着くと、ベッキーの何が悪かったか、今は Web 上ではここに、ベッキーは会見などで「嘘をついたから悪い」と結論付けられることが多い。

[参考]<パクリ企業の謎>世界一有名な無名デザイナー三宅順也って誰?

元々ベッキーは川谷絵音の結婚を知らされていなかったとされている。つまりベッキーは川谷絵音に騙されていたわけだ。しかし事細かにベッキーはいかにも共犯扱いされてしまう。そして結局何が悪かったか、結論として会見での「嘘が悪い」などと言われてしまう。このケースでは、結局「嘘をついた」がゆえにベッキーは多くの仕事を取られてしまったのかと、今回の木下優樹菜騒動以上に、おかしな一言総括がされてしまう状況である。

ネット上の世論は、ますますここに来て、短絡化が進んでしまう。こうした状況では、芸能界や事務所側もなんとか騒動を鎮めたいと思うのは無理のないことである。こういう状況では、マスメディアも芸能人を守ろうとすると、徒党を組んでいるものとして叩かれてしまうし、権力事務所が言論を統制していると事実とは無関係に批判されてしまう。

明石家さんまはこの騒動に対し、インターネットの出現による表現上の問題を指摘している。もちろんこれに対してもネット世論は、明石家さんまのイメージとしては古い業界の人間であり、常に芸能人を守るというイメージがあるので、時代錯誤として一蹴されてしまう。

しかしこれもよく考えれば、元々はママ友同士なのだから本来は話し合いや言葉の応酬で解決するはずのものであり、「事務所総出」というといかにも暴力団的な恫喝に聞こえてしまうが、そのような恫喝であったのかは、もしも対面での言葉の応酬であれば表現の仕方が変わっていたことは大いに考えられる。

通常の話し合いでは相手がなぜ怒っているのかを互いに探り合い話し合うものである。既述の通り、怒る側には怒るだけの理由があり、Web上に現在出ている情報をそのまま受け止めれば、木下優樹菜が怒る理由も正当なものである。既述の通り、事務所が出てきて対応しても全くおかしくない事態である。

管賀江留郎の『道徳感情はなぜ人を誤らせるのか 冤罪、虐殺、正しい心』という著書がある。冤罪事件を詳細にとりあげた上での終盤の分析に評価がある。タイトル通り、冤罪事件はなぜ起こるのか、それは人々が正しい心を持とうとする道徳感情によるものだということである。人々が容疑者に鞭を打とうとする人々の沸騰した状態を著者は「市民の間に盛り上がる囂々たる空気」と表現している。

インターネットの出現は、これをいかにも表現しやすくなった。木下優樹菜の騒動もベッキーの騒動も、単にこれまで全面的に支持できなかった芸能人を叩けるチャンスが来ただけなのではないかと見ることもできるが、人々の冷静な思考を停止させているものがあるとすれば、それはまさに道徳感情による悪を罰したいという正義感である。

本書では、アダム・スミスの『道徳感情論』と現代の進化生物学をリンクさせながら道徳感情がいかに人を誤らせるのかを説明する。大雑把に要約すれば、助け合うことが自身を最も生きながらえさせるということからくる、人類に埋め込まれた道徳感情だということである。良いことをしていれば間違いなく報われるはずなのだという感情であり、公平に悪いことをしている者は罰せられるべきだという感情である。

そして自分が正しいことをしていると思っている時は冷静な判断を失い、結局は正しくない行動を、誤った行動を人間はしてしまいがちなのである。著書ではこれをアダム・スミスの古典的哲学を出発にしつつ、虫も動物も古代人も現代人も共通にしているはずの生物の生態を進化生物学でもって、著者は説明している。

私は Web 上の批判(炎上)による芸能人の追い落としを最初に跡づけたのは2007年の沢尻エリカの「別に」騒動だと記憶している(カウントの仕方にもよるが)。当時はネットメディアも乏しく、J-Castというネットメディアがネット世論に公的に与している程度であった。

つまり、これがYahoo!トップに掲載されることで、ネット世論の権力は一段大きく上がった。沢尻エリカの「別に」騒動は、実際はネット世論以上に、業界内を騒がせたということが大きかった(中山秀征の日本テレビ「ラジかるッ」という番組での態度も不評を買った)。

[参考]映画「記憶にございません」と「桜を観る会」騒動

しかし、まもなくして2008年、倖田來未の「羊水が腐る」発言の炎上はまさしくネット世論の力で発言を周知させ、倖田來未を謝罪に至らせたと言えよう(これも数年後には(当時からも言われていたが)、倖田來未の発言は正しかったじゃないかとWeb上で度々言われてしまう始末である。倖田來未はこの事件を機に落ち目になるのを促進させている)。奇しくも最近の2019年11月16日、沢尻エリカは大麻所持で逮捕されている。

これらから約10年経ち、ネット世論の短絡化は極まった感がある。ネット世論の冷静な思考を鈍らせているのは道徳感情であるのはそうだが、一方で、発言者やターゲットが誰かによって叩かれ方がまったく違ってくるというのも否めない。木下優樹菜の姉のママ友であるタピオカ店の店長は、木下姉妹への不当な扱いが多々あったにもかかわらず、悪く言ってしまえば、木下優樹菜を陥れるに十分であるDMを得たことで一方的な勝利を手にしてしまった。

いや、本来は双方の言い分を巡ってWeb上で応酬や論争がなされるはずではなかったのか。 悪く言ってしまえば、木下優樹菜といういかにも批判されそうなタレントによるいかにも批判されそうなDMを得たことによって、いとも簡単に一方的な勝利を手にしてしまったのである。ネット世論を味方につけることでの一方的な勝利といえば、(元)NGT48の山口真帆へのファンによる暴行騒動が思い起こされる。

この騒動自体のここでの詳述は避けるが、込み入った様々な問題が、山口真帆によるネットイナゴとでも言うべき存在の誘導によって、問題の拡大が起こったのは間違いのないところであろう。山口真帆との関係がどうであるかに何の根拠もないにもかかわらず、NGT48メンバーへの脅迫による逮捕者も幾人か出ている始末である。まさしく(それと言うにはあまりにも短絡的に生じた)冤罪被害者が(ネット世論による私刑だが)多く出た感のある騒動であった。2019年のネット世論は、ともすれば、ネット世論を簡単に操ってあらゆるメディアや世論を誘導できる時代に進みつつある一歩を踏み出したかのようにみえる。

政治言論がそうであるように、Web 上の言論によって、リアルの意思決定がそのまま動かされるようではいけないのではないか。Web 言論の間接民主制(権力の分散)を果たすべく、ネットメディアやマスメディア、番組スポンサー企業が、もっと自律的に考えて、社会的責任、倫理性を果たせるようにならなくてはならない。

 

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