<実録TGC:第4回>東京ガールズコレクション創業者が語るTGCからNFTへ
メディアゴン編集部
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新しい投資? 新しいアートビジネス?それとも・・・?今、何かと話題のNFT。そんなNFTに東京ガールズコレクション創業者である大浜史太郎氏(Jake Ohama)が「NFTデジタルアートムーブメント」プロジェクトを掲げ、オランダ、シンガポール、英国から本格参入する。ファッション業界で成功を納めた大浜史太郎氏だけに興味は尽きない。ファッションからNFTに参入する意図と狙いは何か。本稿では、東京ガールズコレクションからコロナ禍を経て、NFTへと至る経緯を、メディアゴン編集部が、大浜史太郎氏に直接にインタビューした。東京ガールズコレクションの知られざる歴史についても詳細に語ってもらった貴重なインタビューをぜひお読みください。
(全て大浜史太郎氏に直接取材をし、全7回を予定)
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[第3回https://mediagong.jp/?p=33356から続く]
<日本最大のファッションフェスタ「東京ガールズコレクション」の誕生>
大浜史太郎氏にとって、2005年は自らウェブマスター編集長として始めた日本最大級の女性ファッションサイト「girlswalker.com」の5周年記念と同時期に起業した株式会社ゼイヴェル(後のブランディング社)の創業5周年の年だった。この年は、いうまでもなく、東京ガールズコレクション(TGC)が始まった年である。
大浜氏が自社の創業5周年記念のイベントを考えていたちょうどその頃、JETRO(日本貿易振興機構)や経済産業省等の政府関係者と出会う機会があった。大浜氏が手がけた神戸コレクション成功の噂を聞きつけていた彼らから、「東京でも開催するなら協力するからやってみないか。もっと日本の繊維産業やアパレル産業を盛り上げて欲しい」という話という話をふられた。コミュニケーション不全と、共催することの難しさから神戸コレクションに対して不満を感じていた大浜氏にとって、それはまさに「渡りに船」だった。
大浜氏は「東京ガールズコレクション実行委員会」を設立し、自ら実行委員長となり、元秘書からプロデューサーへと育っていた村上範義氏(現TGCメインプロデューサー)や、創業時から一緒にやってきた小寺達也氏らを呼び寄せて、TGCの企画案をまとめていった。そこに芸能関係の知り合いも多かった石山高広氏なども加わった。
初回TGCの開催は、大浜氏を含めた、この男性スタッフ4人が中心となり、TGC実行委員会の骨子はまとめられ、つくられたといっても過言ではない。日本最大級の女性のお祭りは、男性4名の猛烈な働きから目まぐるしく始まっていった。大浜氏は途中から、女性向けファッションショーなので、対外的にはバランスを取るために女性のプロデューサーをおきたいと考えはじめた。そんな時、偶然タイミング良く、TGC開催の数ヶ月前に知り合ったエフモード社・永谷亜矢子氏に白羽の矢を立てる。
当時、永谷氏の雑誌編集能力は非常に高く、それを評価した大浜氏は、永谷氏にゼイヴェル社に入社してもらうと、東京ガールズコレクションの女性プロデューサーにおいた。これは後日談であるが、永谷氏には、TGCの開催を重ねるごとに参加ブランドやモデル事務所などから『高圧的だ』とのクレームが多発した。それでも毎日何度も泣いて乗り越えていく永谷氏は、『泣き虫ジャイアン』と呼ばれて社内では親しまれていた。
だが、プロデューサーの村上氏や大浜氏らがたびたび謝罪に行くなど尻拭いさせられることも多発したため、結果的には永谷氏は取締役会で更迭される。
「当時の現場は僕たちの誰もが24時間働いていたまさに戦場でした。気が休まることがない。この業界では仕事と心のバランスを取るのは誰でも本当に難しい。永谷氏の更迭は苦渋の決断でした・・・」(大浜氏)
と当時を懐かしむ。
このように、始動したばかりのTGC実行委員会は、時には固く結束し、時には互いに衝突しあう、いわば「戦友」だった。運命の磁石に引き寄せられるように、個性あふれる異分子たちがTGCに集結し、産声のうねりをあげていく。現場の演出は、有限会社ドラムカンの田村幸司氏が担当。大浜氏はコンセプトやテーマなどを考えつつ、細かい部分にまで具体的なアイデアや指示を下し、それを集まった少数先鋭のメンバーたちで共に作り上げてゆく。それが東京ガールズコレクションであった。
もちろん、大浜氏は第1回の神戸コレクションから一緒にファッションイベントを作り上げてきた毎日放送(MBS)のHプロデューサーに対しても礼を欠くことはなかった。仲違いによる分離独立のような状態ではなく、きちんと仁義を切って大浜氏が主催となって独自のショーを開催することを伝えて、袂を分かち、それぞれの道を歩んでゆくことになる。こうして大浜氏のファッション事業は神戸から東京へと事業の軸を移していった。
大浜氏は、何をするにも『テーマやコンセプト』にこだわる実業家であり、クリエイターである。そして、自分達が表現しているものが、何のメタファー(隠喩)なのかまで徹底的に考え抜く。見ているお客さんからすれば、何気ない一種の表現の中にも、必ずテーマやコンセプトがあり、メタファーが込められている。見えない部分の作り込みこそ重要なのだ、と。
自身で主催することになった東京ガールズコレクションでは、その部分に徹底的にこだわろうと考えた。それこそがTGCを他のイベントとは異なる、新しく深みのあるものにするはずだと確信していたためだ。そういった部分が、神戸コレクションにはそれらが欠落していると常々感じていたといこともある。もちろん、テレビ局が主催者となっている以上、それは仕方ないことである。放送局の一般社員にそこまでの仕事を求める事自体、無理がある。
だからこそ、大浜氏はTGCには、コンセプトからメタファーまで徹底的に思索した。
*何故、TGCをやる意味があるのか?
*東京でやることの意義とは何か?
*神戸コレクションとの差別化とは?
この軸がなければ、経済産業省やJETRO、東京都などを巻き込んで後援してもらう資格がないとさえ考えた。そこで至った解が「東京とはイコール日本である」という着眼点である。
フランスなどのモードやオートクチュールやプレタポルテなどと異なり、日本のファッション史やリアルクローズの勃興や乱立の背景には、敗戦後の一億総中流化が強く影響している。
[参考]<実録TGC:第1回>東京ガールズコレクション創業者が語るTGCからNFTへ
欧米のファッションシーンを追うのではなく、リアルな東京、リアルな日本のファッションで世界に打って出る。戦後経済成長した日本であるが、文化的なことに関しては、欧米の追従ばかりだ。だからこそ、大浜氏は、次のようにいう。
「日本のファッションの中心地である表参道や銀座を見てください。ルイヴィトン、シャネル、グッチ・・・どこもかしこも欧米のブランドばかり、欧米ブランドに埋め尽くされています。日本の文化の中心地は、海外に占領されてるとも言えます(笑)。だから、もっと日本の現実的な着回しできる洋服『リアルクローズ』を盛り上げたいと思いました」(大浜氏)
戦後の日本の経済成長に対して、欧米にはひたすら弱腰な日本の文化意識。いつまでも占領されたままの意識ではダメだ。そもそも、今の私たち日本人が幸せにデザインやファッションをリーズナブルな価格で楽しめるのは、日本の先人たちの血と涙の結晶に他ならない。そこへの感謝を忘れてはいないか。・・・こうして考え抜いたコンセプトが、「日本の祈り」であり「鎮魂祭」としての東京ガールズコレクションだった。
日本の慰霊祭であるTGCには、「ランウェイの先には広島がある」という強烈なメッセージを埋め込んだ。第1回の東京ガールズコレクションの開催は、2005年8月7日である。この日が開催日に選ばれた理由は、8月6日の広島原爆記念日と8月9日の長崎の原爆記念日の間にあたる週末が、8月7日(日曜日)であったためだ。
現在の日本の礎(いしずえ)となった先人たちへの感謝を忘れない。それを誰もが意識してゆくことで、日本は初めて欧米からの占領から脱することができる。その時、日本のリアルクローズは、世界に対抗できるファッションカルチャーになるはずだと大浜氏は考えた。そして、それを表現するアート作品がTGCなのだ、と。
TGCとは日本最大級のファッションイベントであるが、一方で、日本最大のレクイエムイベント(鎮魂祭)である。TGCにこのような深いコンセプトやテーマがあったことを知る人は多くはあるまい。むしろ、それを知り、驚く人は多いだろう。(第5回へ続く)
*編集部註:girlswalker.comおよび当時の運営会社は売却されており、現在のgirlswalker.comと大浜氏は一切関係ありません。
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