<テレビ凋落の原因>分業がテレビをつまらなくした?テレビは芸術作品でも工業製品でもない
高橋秀樹[放送作家]
2014年3月7日
今、日本で護送船団に守られている業界は2つしかない。原発問題で揺れる電力会社10社、そして許認可事業であるテレビ業界である。しかし、地上波テレビの広告収入をビジネスモデルの中心にすえたテレビ業界は、今、足下の砂が音を立てて崩れ始めている。いろいろな理由があるが、その第一の理由はテレビの根幹である番組がつまらないからである。
なぜつまらないのか。それは分業の罠に陥っているからである。
ドラマも、バラエティショウも、演出家と脚本家が分業でつくってきたのではないかと思うかもしれない。しかし、それはちがう。元始、演出家と脚本家は、ともにホテルや旅館に缶詰になって、分業ではなく共同作業で番組の設計図である脚本を作り上げてきた。
昭和52年ごろ、テレビの世界にかかわり始めた僕は、それを経験した最後の世代かもしれない。
話を、最近つまらないと指摘されることが多い、バラエティショウに絞ろう。ドラマには作劇術を学ぶべき先達の手本がたくさんあった。歌舞伎、世阿弥の『花伝書』、フィルムとして残った東西の膨大な映画、時代劇のノウハウがすべて詰まった『長谷川伸全集』、『仁義なき戦い』の脚本家、笠原和夫氏の著作『昭和の劇』。ところが、テレビが発明した形式である、歌あり、笑いあり、踊りあり、座談ありのバラエティショウには手本が極めて少なかった。
日本のテレビ製作者はアメリカにその範を求めて、貪欲に吸収した。一方で吸収したバラエティショウのエッセンスを脚本化できる作家を探した。可能性だけが詰まったテレビには獲物を狙う虎のような目をした若き才能が集まった。当時は日本でいちばん、先端を行く職業でもあったのだろう。アメリカ帰りの演出家とキラキラ輝く才能を持った作家は、ドラマと同じように、討論を重ねながら、番組の脚本を作っていった。すべてが生放送の初期のテレビにおいて、脚本はそのとおりにやる絶対のものであり、演者はそれをうまく表現できる役者であらねばならなかった。
こうしたバラエティショウから、脚本をなくしたのは、僕が師と仰ぐ萩本欽一だと言われている。しかし、それは大きな間違いである。なぜなら、脚本は厳然としてあったからである。萩本ほど脚本と作家を大事にした演者(萩本の場合演出家でもある)はいない。自分のブレインとして作家集団を抱えたのは萩本の慧眼である。ただし、萩本の必要とする脚本はすべてせりふを書き込んだものではなく、非常に薄いものだった。極端に表現すれば萩本が必要とするのは冒頭の2行だけが書いてある脚本である。
萩本欽一「いし焼~きいも。おいも」
坂上二郎「ワイシャツできてる?」
設定だけあれば、後は、萩本が作ってゆくのである。これは浅草のコントの作り方をテレビに持ち込んだものである。しかし、この2行の脚本を書くためには、きわめて、長い時間を要した。これは、萩本と作家の共同作業でなされる。100個、設定を考えて全部捨て、101個目を採用する、そんな長時間の共同作業であった。
これが多くのテレビマンに、間違って伝わった。脚本なんかなくても、演者に任せればいい。演出家はディレクターと名乗り、画を撮って編集するひと、作家は単発のアイディアを考えるひとに成り下がり、分業が始まった。
分業は今、バラエティショウに蔓延している。ディレクターは自ら調べ物をしなくなり、リサーチャーという人たちを雇い、プロデューサーは自らキャスティングをしなくなり、編成局がキャスティングした演者をありがたく頂き、そのお守り役になる。各プロダクション別にアシスタント・プロデューサーが張り付き、プロダクション側の利権代表になってしまう。自分がどうしても一緒にやりたい演者のもとに日参りし、口説き落として番組を立ち上げる、そういう正常なことが行われなくなった。テレビマンも演者も効率的なビジネスとしての番組を求めるような時代になった。それを実現するには、確かに分業は便利だ。
ただし番組は芸術作品では決してないが、工業製品でもない。自動車メーカーに就職しても、決して自動車を作れるような技術は獲得できず、覚えられた技術はねじを外れないように締める技術だけであった。