<パロディの条件>ナイナイ・岡村隆史にはもう出来ないが、爆笑問題・太田光にはまだできる
高橋秀樹[放送作家]
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「パロディ」を作る時には「2つの鉄則」がある。
コメディアンがパロディを作る時は、「自分より価値や評価が大きい物」に向かっていかないと価値がない。価値がないばかりか、「面白くない」。これが鉄則その①。
パロディは「弱いモノ」が「強いモノ」を「茶化す」ことが最大の効用である。しかし、それが「逆」ではパロディではなく、品性下劣な「ただの『いじめ』」となる。
では「強いモノ」とはなんだろう。ビッグヒットしたドラマ、大金をかけた大作映画、政治家、官僚、企業のCM、ヒットソング、アイドル、世の中を騒がせた詐欺、事件、一般にはあると信じられている権威・・・などなど。イメージを限定するといけないので具体例は挙げない。
パロディはこれらを「茶化す」。風刺だと勘違している人がいるが、風刺はなくても良い。あくまでも「茶化す」のである。パロディはコメディアンにとって大きな武器だが、これができなくなる時がある。ほかからの規制、自己規制などが求められた場合が「そういう時」なので、それは「乗り越える工夫」をすればよいだけのことだ。
パロディがやれなくなるのは、コメディアン自身が「大きく」なってしまった時だ。昔、コメディアンは汚く添え物的な扱いをされ、決して「大きくなる」ことはなかった。ところが、最近のコメディアンは市民権を得たものだから「ビッグ」になる。そうなるとパロディをやっても、みな「弱い者いじめだ」になってしまう。
『オレたちひょうきん族(1981〜1989・フジテレビ)』でビートたけし扮する「タケちゃんマン」の台本を書いていたと時もそうなった。ビートたけしや、明石家さんまはもう十分に「大物」で、パロディにする対象がどんどんなくなっていった。もう、オリジナルをやるしか道がなくなったのだ。
多くは語らないが、今現在、その状態にある芸人と言えば、ナインティナインの岡村隆史である。そして、まだ「できる」のは爆笑問題の太田光。
最後に「鉄則その②」を書いておこう。
パロディは「元を知らなくても」笑えなければならない。
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