ドラマ「Dr.倫太郎」の原案小説「セラピューティック・ラブ」は堺雅人を想定して書かれた小説?

テレビ

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事/社会臨床学会会員]

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日本テレビ木曜夜10時から放送の堺雅人主演「Dr.倫太郎」で、原案とクレジットされる小説「セラピューティック・ラブ」(治療的な愛とでもいうような意味か)を読んだ。著者は清心海(せい・しんかい)氏。精神科医に当て字したものだ。

プロフィールを見ると、雑誌記者を経て、精神科医になったという特異な経歴の持ち主である。今は都内で自費診療のカウンセリング・オフィスを開業。とある。クリニック(診療所や医院)ではないところに注意が必要だ。

ところで、この小説は「原案」だが、「原作」とは、どこが違うのだろう。

筆者なりの理解では「原案」は「脚本のヒントはもらったけれど、ストーリーや人物設定はオリジナル」。「原作」は「ストーリー、人物設定ともに借りて有るが、オリジナルの要素を付け加えた」というものということであろうか。

脚本家によっては「オリジナルしか書かない」という人もおり、「今のテレビドラマはマンガや小説などの原作ものばかりで嘆かわしい」と言うドラマ制作者もいる。

原作があれば、最後まで話がわかっているので安心だが、脚本を作りながら11話分を撮影していくオリジナルドラマでは先がどうなるのかはわからないし、「視聴率が取れるか不安である」と、テレビの編成局は判断しがちだ。冒険しない。それが、原作ものが流行る理由の一つだ。

「Dr.倫太郎」の場合、原案である。脚本は「ハケンの品格」「ドクターX〜外科医・大門未知子〜」「花子とアン」などの売れっ子、中園ミホさんである。

小説を読むと、ドラマとは人物設定や、与えられた役名が同一である。主人公は精神分析家で慧南大学病院教授の日野倫太郎(堺雅人)、大学病院の理事長の円能寺一雄(小日向文世)、円能寺に紹介され倫太郎のカウンセリングを受ける内に惹かれていく新橋芸者の夢乃(蒼井優)、倫太郎の幼なじみで、何かと世話を焼く外科医の水島百合子(吉瀬美智子)、精神科主任教授で、倫太郎の精神分析とは真っ向から対立する脳科学者の宮川貴博(長塚圭史)。ここまでは小説、ドラマともに同じ。他にドラマオリジナルの役柄が加わる。

小説を読んでまず感じたのは、これは役者・堺雅人に当てて書かれた小説ではないか、と言うことであった。会話の言い回しが堺雅人そっくりなのである。お断りしておくが、これは筆者の推測である。

ドラマになったらあの俳優に演じて欲しいなあと思いながら小説を書くことはあるだろうが、これはドラマの原作にするための「当て書き」のような気がする。小説の倫太郎は「倍返し」とも発言する。

TBSのドラマ「半沢直樹」で、上を目指すと公言する怖いもの知らずの銀行マン。フジテレビ「リーガルハイ」で、訴訟に一度も負けたことがない敏腕弁護士を演じた堺雅人は、次のドラマでどんな職業を演るか悩んだに違いない。そこで見つけたのが精神分析家だったのではないか。

堺は早稲田大学第一文学部中国文学専修中退であるが、実は心理学科に進みたかったのではないか。精神分析をやってみたかったのではないか、とさえ感じる。ところが早稲田は実験心理学を主にやっており、ネズミの世話が勉強である。その現実を見て心が折れたのではないか。

しかも、心理学は人気の学科で、教養課程から進学できるのは成績優秀な女子学生ばかりである。芝居に打ち込んでいた堺が成績優秀だったとは思えない。それで人気のあまりない中国文学に進むしかなかったのではないか。

精神分析家の役がやりたいというのは堺の希望だったのではないか。ところが精神分析は今や、廃れている。特に、関東ではやる医者が少ない。オリジナルで脚本家に書いてもらうにしても、リアリティを持って書くには、その知識があるものがいない。勉強して書くには時間がない。

そこで、精神分析をやっている人に小説を書いてもらおうかと言うことになった。それが、原案小説の著者、清心海氏だったのではないか。筆者がそう思う理由はもう一つある。

この小説は書き下ろしと表記されており、初版は3月20日である。とすると、制作者側はゲラ(「校正稿」を表す出版業界の用語)でこの小説を読んだことになる。元々は原作小説とドラマのメディアミックスを仕掛けたかったのかもしれない。

読者の礼儀として、小説の主人公と著者とを同一視してはいけないが、一方で著者の気持ちが主人公に投影されるのは、当たり前であるとも思う。この著者は医師であるから京都府立医科大学か京都大学で精神医学を学んだと思われるが、精神分析に進むにはそれだけではなにも学べず、米国か英国に留学することになる。

小説の倫太郎もアメリカに留学しており、カウンセリング技法の精神分析に自信を持っている。精神分析は脳科学などと違ってクライエント(患者、顧客)の心に寄り添う効果的な治療法であるという主張である。

ところが現実の日本では、関西、特にその牙城である京都大学の地元で、地域限定的に盛んなだけである。小説のなかで非難されることになる、ただ薬を出すだけの精神科医も居ることにいるが、多くの精神科医は認知療法や応用行動療法を学んで、それを心理療法の技法として使いながら、短い診療時間の中で患者の話を聞く努力をしている。精神安定剤なとの薬も併用する。

その中で精神分析は劣勢であることは否めない。筆者が信頼する精神分析家である妙木浩之氏は、早くなおしたい人は精神分析ではなく他の技法にした方がいいと、率直に発言しているくらいである。

こうした、精神医学界の現状はほとんど知る人がいないだろうから、ドラマとしては精神分析学で人の心を修復するスーパーマン倫太郎と言うことで突き進んでもよいと考えるかもしれないが、それでは、虚実皮膜の原則に反する。原案小説を読んで、ドラマ制作者側はハタと困ったのではないか。

原案小説の話に戻る。精神分析家である倫太郎にカウンセリングを受けているうちに、夢乃は倫太郎に依存するようになって好きになってしまう。頼られた倫太郎の方もまた、夢乃を愛してしまう。医者と患者の倫理を越えてしまう。

夢乃は、薬ほしさに依存する倫太郎を巧みなじらしで罠にはめてゆく。その2人のメールのやりとりが延々と描写される。メールがあって、じらされた末のセックスが描かれて、またじらされて、破局するかと思うとセックスがあって、おぼれていく倫太郎。「書簡小説」というのがあるが、これはいわば「メール官能小説」で、後半は、筆者があまり
読みたくない種類の小説になってゆく。

第一回の「Dr.倫太郎」は13.9%であった。まずまずの滑り出しである。第一回では会社でいじめにあって、うつ状態になって、飛び降り自殺をしようとしたOL(ハリセンボン近藤春菜)を説得する倫太郎が描かれていたが、二回目以降もおそらくこういった心の悩みを持つゲストが登場し、倫太郎が助ける一回読み切りのエピソードを挿入するのであろう。

そして連続ドラマの縦糸として倫太郎の三角、四角関係の濃いが描かれていくのだろう。筆者は、恋の行方には興味がないが、どんな心の病の人がどう修復されるのかに興味があるので、次回も見ることにした。

精神科医の大野裕氏は「患者の数だけ治療法がある」とおっしゃっているが、筆者は「人の数だけ病態がある」と言いたい。だからこのドラマを見る人は最後に数秒表示される断り書きのスーパーだけは見逃さないで欲しい。

「精神疾患の診療方法は多様であり、ドラマの診療方法が、すべての症例に当てはまるものではありません」

おそらく、ドラマ制作者は精神科医に監修を頼んでいるが、どの精神科医に頼むかによって全く違う判断が下されてしまうのでは、監修にならない。精神科が100人居れば、100種類の診断名が下されるのがこの世界である。

難しい分野に踏み込んだ日本テレビの制作者に賛辞を送りたい。もちろん堺雅人さんにも。だから、単なる医者と芸者の色恋ドラマにはしないようにして下さい。筆者の願いである。

 

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