<女性誌の歴史から観る>日本とフランスで異なった女性誌の分岐点後の展開
江下雅之[明治大学情報コミュニケーション学部教授]
女性誌の歴史のなかで1960年代後半は日本でもフランスでも大きな転換点なのだが、その後の方向性がまるで異なっている。
フランスの女性誌は1960年代前半が黄金期といわれ、後半に入ると主な雑誌の販売部数が急降下した。
たとえば月刊モード誌「Marie Claire」は1962年から1967年にかけて、70万部あった平均販売部数が50万を切った。19世紀から続いていた総合誌「L’Echo de la Mode」や主婦向けの人気実用誌「Modes et Travaux」なども発行部数が30%低下した。
テレビ普及がその一因だが、働く女性の増加や離婚増による男女関係の変化により、それまでの雑誌のコンセプトが飽きられたとみられている。
日本でもテレビの普及は同様だし、働く女性(当時の言い方ではBG:ビジネス・ガール)も増加した。ところがBGの増加はむしろ女性誌にあらたな需要をもたらした。
それまでの日本では、洋裁学校のテキストも兼ねた服飾研究誌がファッション誌を兼ねていた。洋装の普及が第二次大戦後だった日本社会では、長らく洋服を着る=洋服を作る、だったのだ。戦前に創刊された「装苑」(すみれ会)が洋装の流れを牽引し、1950年代後半には洋裁ブームも生じている。
それがBGの増加により、「作る」参考にされていた服飾研究誌に、通勤ファッションの参考に「見る」という需要が高まったのだ。たとえば月刊誌「若い女性」(講談社)の誌面構成に、そうした需要変化がよくあらわれている。
そして60年代の終わりに日本やフランスでは学生運動が激化する。日本では学生運動が沈静化されたあと、むしろ大学がレジャーランド化し、大学生が消費市場の主役として台頭していく。その時期に新しいコンセプトの雑誌として「anan」(平凡出版)が華々しく登場した。
数年後に「J J」(光文社)が誕生し、80年前後のニュートラ・ファッションのブームにより、女子大生のファッション誌需要が一気に高まっていったのである。
他方、フランスでは「五月革命」という呼び方があるように、学生運動の激化は労働運動やフェミニズム運動などとも重なり合い、戦後フランス社会の価値観の大転換につながったとされる。旧来の雑誌は読者に飽きられた。1970年代前半は女性誌の暗黒時代とまでいわれている。
80年代に入り、徹底した市場調査によって読者の需要を把握し、それによって実用性の高い雑誌を創刊するといったことが起きた。既存誌もニーズ分析にもとづく誌面刷新をおこなっている。ただ、日本のように女子大生や若いOLを対象にした女性誌が巨大市場になる、という現象は起きていない。
こうした結果、現在の日本とフランスの女性誌を比較すると、ファッション誌の広がりという点で大きな違いが見出される。じつは1960年代前半までは日仏の女性誌の歴史には共通点はむしろ多かった。60年代後半が大きな分岐点となった形だが、その要因については、いつか機会があれば述べてみたいと思う。
(図版1 L’Echo de la Mode)
1879年に「Le Petit Echo de la Mode」の名前で創刊された総合女性誌。
何度か誌名を変更するも1983年に廃刊となる。写真に写っているのは、1896年、1918年、1928年、1947年、1956年に発行された号。
(図版2 Modes et Travaux)
1919年に創刊された実用情報中心の女性誌。
写真は1946年3月号で通巻550号にあたる。
(図版3 Marie-Claire)
1937年に高級モード週刊誌として創刊された。
ナチ占領下のヴィシー政権でも刊行が続いたが戦後休刊となり、1954年に月刊誌として復刊した。
写真は1954年12月号で、復刊第3号にあたる。
(図版4 装苑)
昭和11年に文化服装学院(当時)が制作した服飾研究誌。
2.26事件が起きた年に、日本のファッション誌の直接のルーツともいえる雑誌が創刊したわけである。
写真は1936年5月号で創刊第2号にあたる。
(図版5 平凡パンチ女性版 )
ananの実質的な準備号として「平凡パンチ女性版」というタイトルで合計4号発刊された。
写真は第3号で、この号で新誌名や新スタッフの募集が行われている。
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