[原一男]映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」「美術館を手玉にとった男」に見る成熟したアメリカのドキュメンタリー


原一男[ドキュメンタリー映画監督]

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アメリカのドキュメンタリーを2本、続けて見た。「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」と「美術館を手玉にとった男」。いやあ、オモシロかった。

以前から感じていることなのだが、アメリカのドキュメンタリーは成熟しているなあ、と改めて今回も感じた。ドキュメンタリーは「人間を描くこと」が究極の課題(ドラマはもちろんのこと)であるが、2作品とも「人間という生き物の不可思議さと魅力」がキチンと描かれている。

「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」

写真なんか全然関わりのない一人の青年がたまたまオークションで大量のネガフィルムが入った収納ボックスを380ドルで落札した。収納ボックスの中に入っていた封筒の宛名に「VivianMaier」の名前を発見。ネット検索にかけ、ヒットしたのは83歳になる同姓同名の女性が亡くなった記事。

「死亡したVivian Maierは、シカゴに暮らしたフランス人であり、写真家の一面もあった」

やむなく彼はネットに彼女の写真をアップした。すると写真の評価が世界的規模に膨れ上がった。個展を開き写真集を出版。そして彼は本人を知る人たちを探し始めた。関係者がカメラに向かって語り始める。次第に明らかになるヴィヴィアン・マイヤーの人生。その展開が実にミステリアス!

乳母として働いていたこと。が、子ども好きと簡単に言えない面も。彼女から虐められたと証言する人もいるからだ。性格的にはかなり変わり者だったこと。生涯、独身だったこと。男性から虐待を受けたこともあるという。そんな彼女にとって生きがいの全てだったと言っていいスナップ写真を撮るという行為。

所々にインサートされる彼女の写真。これが、もうホントに素晴らしいのだ。彼女は街中で出逢うあらゆる人々を撮った。路上生活者や黒人などの弱者たち。毛皮を着て物質に恵まれているかに見える人々にもカメラの目を向けた。

当然、何故彼女は、このような人々に関心を持ち写真に撮ったのだろうか?という疑問が増幅する。写真を撮ることが彼女の人生にとってどのような意味を持っていたのだろうか? と

謎が謎を呼び、見る側は人生の過酷さについて思いを巡らせる。

世界映画史上の偉大な名作「市民ケーン(1941)」は、新聞王として勇名を馳せた偉大な男の死から物語は始まる。この作品もまた、まず写真家として素晴らしい才能を持った女性が既に亡くなっていることを描き、そこからヒロインを巡る謎解きが始まる。

「市民ケーン」では“薔薇の蕾み”が明らかになって終わる。が、こちらは映画の中では“薔薇の蕾み”にあたるものは明らかにされない。それは観客に委ねられる。そのことが余韻となり、感銘がよりいっそう深くなる。

「美術館を手玉にとった男」

先の作品は故人を追ったものだが、こちらは生身を追った作品。

ヴィヴィアン・マイヤー同様、この作品の主人公、マーク・ランディスも、本人自らが世の中へ打ってでたわけでなく、“神の託宣”というべき第三者の手によって世にでるきっかけをつかんでいる。この第三者の存在もまた、映画がドラマチックな感動を与えている要素のひとつとして大きな意味を持っている。

マーク・ランディは幼少の頃から模写が好きだった。そして30年以上100点以上の贋作を制作し全米20州46の美術館へ寄贈した。ある日、当時、シンシナティ美術館の学芸員であったマシュー・レイニンガーが、贋作であると気付いた。そ

してこのセンセーショナルな事件は「ニューヨークタイムズ」や「フィナンシャルタイムズ」などテレビをはじめとした全米のメディアが取り上げ、FBIも捜査に乗り出したが、彼は金銭を一銭も受け取っていなかったために犯罪にはならなかった。この事件に興味を抱いた制作者二人が謎の贋作画家の素顔に迫るドキュメンタリー映画を製作した。

何よりこの作品の強み、同時に面白さでもあるが、マーク・ランディの贋作を寄贈する行為を過去のものとして追うのではなくリアルタイムでフォローしていることである。犯罪ではないにしても反社会的行為を堂々とやってのける主人公を正面切って追うという出会いは、なかなかないものである。

この2本のアメリカン・ドキュメンタリー、決して奇を衒った作り方はしていない。ドラマの作法を引用している。

「ヴィヴィアン・マイヤー」は、先に「市民ケーン」を引用したが、“薔薇の蕾み”を追う、という方法を意識しなくてもごく自然にその方法を踏襲してサスペンスを生んでいる。「美術館を手玉に」も、主人公を問い詰める役割を持って“敵役”が登場して緊迫感を盛り上げている。

かつて劇映画とドキュメンタリーとを分けて考えるという見方が圧倒的だった時代は存在したが、今や劇映画もドキュメンタリーも同じだよ、という認識を大方の映画人たちが持っている。だからドキュメンタリー作品に劇映画の作法を導入しても何ら不思議はない。

もう一点。2作品とも主人公の生き方自体が素晴らしいのである。

ヴィヴィアン・マイヤーの決して幸福であるとは言いがたい彼女の生の現場で、たったひとつ自分の生の喜びを感じ取り、自己を肯定できる営みがスナップ写真を撮ること。自分が自分らしく生きるためにスナップ写真を撮る行為が絶対に必要だった。

マーク・ランディも、17歳の時に神経衰弱と診断されたこともあるというから、生き難さを抱きながら生きてきたであろう、その中で得意の贋作に没頭することで自らの生を肯定し得たのだろうと思う。映画の中で彼が診断書に記入してある病名を読み上げるシーンがある。

  • 妄想型統合失調症と精神障害
  • パーソナリティ障害
  • 緊張型、もしくは著しい解体型症状
  • 支離滅裂
  • 不可解な思考 認知 会話 行動
  • 病理的に不適切な不信感、衝動的で害のある行動

この程度の“病”なら普通じゃないか! と思わず笑ってしまった。私は、アメリカという社会は相当に病んでいるだろうと思うのだが、その病んだ社会の中で表現という手段を確立し、己を見失わずに追求して生きている主人公の姿に激しく感動する。

その魅力ある生き方を主人公に据えて、撮る側のオーソドックスともいえる手法で描ききるプロの仕事があり、こうして傑作ドキュメンタリーが生まれていく。

ドキュメンタリーの魅力は主人公の生身がもつ魅力度に依存する。そしてその魅力を際立たせるためにスタッフの側に適切な手法があってこそ始めて傑作になり得る。

私が冒頭に書いた“アメリカのドキュメンタリーは成熟しているなあ”という意味は、病んだ社会でありながらも個人が自らの生をキチンと選び取り、生きる欲望を全うできているということ、それはまさに民主主義的価値観が確かに根付いている証である。

さらにそういう人物を取りあげる制作者が存在して、作品を評価する観客もまた存在するという健全さを、成熟というのである。翻ってニッポン国はどうなのだろう?

個が個として自らの生を率直に追求しているだろうか? 権力の悪と腐敗の構造を見抜く確かな目を持っているだろうか? 他者へのリスペクトを持ち、とりわけ弱者への惜しみない助力を提供できているだろうか?

そして作り手たちも、人間の魅力を描くべく、奇を衒うのではなく、最善最適な方法を持ち得ているだろうか?

ヒトとして自分は成熟している、確信を持って言えるであろうか?  と考え込んでしまう。

 

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原一男

原一男(はら・かずお) ドキュメンタリー映画監督。1945年生まれ。疾走プロダクション所属。1987年の映画「ゆきゆきて、神軍」は、ベルリン映画祭カリガリ映画賞、シネマ・デュ・レェール・グランプリなど、数々の賞を総なめ (奥崎謙三は、かつて自らが所属した独立工兵隊第36連隊のウェワク残留隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。) 小説家・井上光晴の晩年5年間を追いかけたドキュメンタリー映画「全身小説家」は、1994年のキネマ旬報ベストテン1位・日本映画監督賞、毎日映画コンクール日本映画大賞。