<涙無くしてはみられない90秒>東京ガスのCMを、自分なら結末をこう変える

社会・メディア

高橋秀樹[放送作家]
***
ある一群が「絆」と染め抜いたTシャツを着ているのは「絆」がないからだ。ある団体が一様に「団結」と書いた鉢巻を締めているのは「団結」していないからだ。そういうふうに考えてしまう天邪鬼の心象を、筆者は持っている。
だから、絆がまとっているはずの服を脱がせて「ナマの絆」になったものを観るのは苦手だ。「俺とばあちゃんは絆で結ばれている」などと、絶対に言うものか。
東京ガスのCMの評判がいい。
サラリーマンになったばかりの青年の独白。

「働いている両親に変わって僕を育ててくれたのはばあちゃんだった」

だから、青年は魚の食べ方が上手い。青年の回想。小学生時代、家に帰る。

「ばあちゃんはいつも台所にいて」
「食べ方には厳しかったけど。それ以外は優しかった」

中学生時代。

「初めてケンカした日も。初めてラブレターをもらった日も」
「ばあちゃんは何も言わずにごはんをつくってくれた」

高校生時代。クラスメイトを家の食事に招待した。だけど、クラスメイトは、ばあちゃんのつくったごはんをほとんど残して、帰った。高校生だった青年は今も悔やんでいる。

自分(現在)「それなのに僕は、ひどいことをしてしまった」
ばあちゃん「口に合わなかったのかねえ」
自分(高校時代)「うちの料理が古くさいからだよ」
ばあちゃん「そうかあ、ごめんね、悪いことしたね」

そして、青年の独白。

「本当は、ばあちゃんの料理が大好きだ」
「食べたいと思うのはいつだってあの地味な料理だ」
「そうだ。週末、ばあちゃんに会いに帰ろう」
「ばあちゃんに謝ろう」

ばあちゃんの前に立つ青年。

青年「あん時はごめん」

再び、青年の独白。

「ばあちゃんは何も言わずに微笑むだろう。」
「僕は泣きたくなって、ばあちゃんのごはんをかき込むだろう」


しかし、このエンディングは嫌だ。筆者ならこうする。
青年の独白

「(本当は=これは削除)ばあちゃんの料理が大好きだ」
「食べたいと思うのはいつだって(あの地味な料理=「ばあちゃんのごはん」に変更)だ」

つまり、このような台詞を考えた。

「ばあちゃんの料理が大好きだ」
「食べたいと思うのはいつだって、ばあちゃんのごはんだ」

以上でCM自体は終わり。開かれた結末にしようか、閉じられた結末にしようかCM製作者は悩んだのだろう。謝りに行くシーンは描かれているものの、「微笑むだろう、かき込むだろう」と青年の独白は未来形である。
青年の独白

「ばあちゃんは何も言わずに微笑むだろう。僕は泣きたくなって」
「ばあちゃんのごはんをかき込むだろう」

この独白も必要ない。言わずもがなの説明になっているからだ。
ばあちゃん役は草村礼子(1940年4月5日生まれ)。この原稿執筆時点で74歳。この演技も素晴らしい。
筆者も「ばあちゃん子」だった。母親がひどい偏食なのに僕がなんでも食べられるのは、ばあちゃんおかげだ。米を食って育った雀は羽をむしって塩焼きにするとすごく美味しいのを知っているのはばあちゃんのおかげだ。
ばあちゃんで泣きたい人には次の本を薦めておく。
『一〇〇年前の女の子』 船曳由美 (講談社)
 
【あわせて読みたい】