<バラエティの本質?>なぜ「笑いを作る人」は「感動を作る人」を憎んでいるのだろうか?

エンタメ・芸能

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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テレビの世界に限った話ではないのかもしれないが、「笑いを作る人」は「感動を作る人」を憎んでいることが多い。
もちろん100%絶対というわけではない。かく言う筆者はバラエティを中心とした放送作家として「笑いを作る人」ではある。しかし、「虹とスニーカーの頃」や「木綿のハンカチーフ」や「ビルマの竪琴」といったコンテンツをモチーフにしてコント脚本を書いた時には「感動」を使った。
しかし、この時は「感動」を何処かでバカにしており、「笑い」を倍加させるときの振りとして使っている。だから筆者の場合は「8割ぐらい感動を憎んでいる」程度だとしておこう。
「笑いを作る人」が感動を憎んでいるグラデーションのどの位置にいるかにもよるが、多かれ少なかれ「感動を憎んでいる」はずだ。これが正しい記述だろう。
なぜ、「笑いを作る人」は「感動」が嫌いなのだろう。理由には以下の様なものがあげられるだろう。

  • 「感動」には嘘くささがつきまとう
  • 「笑いを作る人」は「感動に逃げたな」と言われるのが悔しい
  • 「感動」を押し付けられるのは嫌だ
  • 「感動」は、恥ずかしい
  • お涙頂戴には腐臭が漂う
  • 「笑いを作る人」は心がひねくれていて汚い。

その昔、新宿に「笑いを作る人」が集まる店があった。ここには「感動」をどれくらい憎んでいるか、その両極にいる人が居て、よく喧嘩になった。
日本には昔から「人情喜劇」というジャンルがあって、人びとの支持を集めているが、当時その代表でしかもメジャーだったのが山田洋次監督の「男はつらいよ」である。1980年代のことだ。
これが面白いかどうか、作品としてすぐれているがどうかで、明け方まで飲んで言い合いになって、殴り合いになる。みな馬鹿なのである。人が作ったものでそんなに熱くなるより、家に帰って「自分の笑い」を作ったほうがいいのに。
でも帰れないのには訳がある。家に帰っても「自分の笑い」など作れないのである。
 
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