大森カンパニープロデュース「更地12」が切り開く「コント舞台」の可能性

映画・舞台・音楽

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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5月20日金曜日下北沢シアター711で「大森カンパニープロデュース『更地12』」のソワレ(夜公演)を見た。この芝居をやる役者達にはファンが付いている。「この芝居には」でもなく、「この役者には」でもないのは理由があるからだが、それはのちに述べる。
もう12回目を数えるこの芝居はいわゆるオムニバス「コント」の舞台だ。演じるのはすべて役者。脚本の故林広志と、演出・出演の大森博を固定して、演目は毎回変わり、出演者は準レギュラーという形でキャスティングされる。だから「ライオンキング」のように芝居にファンが付いているわけでも、劇団にファンが付いているわけでもなく、この芝居をやる役者達にはファンが付いているのである。
特定のスターが生まれて、その個人にファンが付いているわけでもない。ファンは大森がつくる笑いのセンスに付いているのだ。笑いのセンスにファンが付くということはすばらしいことだ。まだまだ、大きく羽ばたいていく可能性を持っている。
コントは白々しいと毛嫌いする人がいる。筆者もコント作家でありながらこの意見には同意する。なぜ白々しいか。それは設定が白々しいからだ。こんなことはあり得ないというシチュエーションで話が展開するからだ。しかしこの白々しさを吹き飛ばす妙薬がある。
それは笑い声である。少々のおかしな設定は笑えれば吹き飛んでしまいかき消される。その状態に持って行くのに必要なのは実は稽古である。いわゆるテレビのコントが面白くないのは稽古が足りていないからである。忙しいタレントや芸人では稽古の時間が満足に取れず、顔に描き物をしたり、裸になって誤魔化すしかなくなる。
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「更地12」で、笑いをやる出演者は皆、役者である。役者は稽古をする。稽古しか自分を支えるものがないから稽古する。その稽古の成果が笑いになる。そういう作り方を「更地」の出演者はずっとやって来た。だから、ひとりだけ抜け駆けで「奇抜」の芸で笑いを取って芝居の流れを阻害することは御法度である。脚本通りに進んでいかないと、どこで笑いになるのか出演者同志が分からなくなり、お先は真っ暗になる。
ところが、舞台劇の笑いの本質はもう少し先にある。稽古して稽古して脚本どおり、にきっちり笑いが取れるような流れに仕上げ、その気持ちで板の上(舞台の上)に立ったとき、客席を見たその瞬間にそれは決まる。「芝居の流れ」は「笑いの流れ」の下層に追いやられる。「笑いの流れ」は「芝居の流れ」に優先するのである。
今度の舞台において「更地12」の出演者は既にその境地に達しているのではないかと、筆者は思った。もともと緻密な柔構造でくみ上げられた芝居の流れの進行は、少々のアドリブを挟んでもびくともしない。その上に、今回は役者が芝居の破綻を楽しむ余裕さえあるように思えたのである。
山口良一、大森ヒロシが屋台骨を支えている舞台の上で、新人三宅祐輔が異彩を放っている。大学駅伝部のコーチ役を演じる三宅は登場のシーンから爆笑である。
お約束の「待ってました」を気持ちよく演じてくれるのは声優で俳優でもある田中真弓。「影の薄い家政婦」役ははまり役。
コントにあまり二枚目は登場しないが、天宮良は笑いの出来る希有な二枚目である。二枚目を崩さないで笑いが取れる芝居は特筆すべき美点である。
同じ時代に生きていて「更地」を見ないのは大いなる損失だと、古今亭志ん生の実演を見損なって後悔した筆者は断言しておこう。
 
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