<舛添報道>「これで幕引きにしてはならない」というテレビはなぜ「取材をやめる」のか?

社会・メディア

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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日本経済新聞デジタル版が次のように伝えている。

「東京都議会は15日の本会議で、舛添要一知事の辞職の申し出に同意した。舛添氏は残務処理の後、21日付で正式に辞職する。本会議に登壇した舛添氏は『これ以上、都政の停滞を長引かせることは耐えがたい。私が身を引くのが一番だと考え、職を辞することを決めた』と辞職理由を述べた」

最後まで自分を飾ることばで締めくくっているところに、舛添氏の誤ったプライドを感じてしまう。
テレビの報道番組は軒並み辞職を伝えた後、以下のような旨の発言で締めくくる。

「これで幕引きにしてはならない」

テレビならずとも、それは多くの都民、国民が思うところである。そもそも疑惑についての都知事自身の説明は全く納得できない。第三者と言われるヤメ検弁護士は舛添氏に雇われた身内で、関係者にあたってさえいない。普通の感覚で言えば第三者ではない。
【参考】自ら「炎上」へと突き進む?舛添都知事の「理論的な釈明」
第三者たり得るのはマスコミであろう。しかしながら、実際はそれも心もとない。
キャスターやコメンテーターたちは「これで幕引きにしてはならない」とは言うものの、これは体のいいまとめの言葉。「幕引きにしてはならない」とは言いながら、残念ながら大抵それで「取材は幕引き」になってしまうのである。
舛添氏の疑惑について、明らかにしておかなければなければならないことはまだまだある。ザル法と言われる政治資金規正法についても提言を行うべきである。しかし、今後の取材は行われないだろう。
それは猪瀬直樹前知事の失脚の原因になった徳洲会からの5000万円授受問題の背景が未だに明らかになっていないことを思い出せばわかるだろう。あの話も、すでに「お蔵入り」している感は否めない。
【参考】<税金も含まれる「政治資金」>舛添都知事の「政治資金」余っているなら返還すべき
ではなぜ、マスコミによる以後の取材は行われないか?
理由は簡単である。取材して放送しても視聴率が取れないからである。視聴率が取れないことを今の報道番組は過剰に恐れている。バッシングは面白いが辞めてしまった人はもう過去の人だ。見る方はもう飽きている。だから取材は行われない。
その意味では、「幕引きにしてはならない」の発言は単なる区切りの思考停止でしかない。都庁クラブに1人か2人かの記者しか配置していない現状では、民放には取材能力が無いとも言えるかもしれない。
「だが!」と筆者は声を大きくして言いたい。本当に視聴率は取れないのか、と。
実は取れるかも知れないのだ。例えば、1週間に1回のペースで、舛添都知事の疑惑を調査報道するコーナーをニュース内に設けてはどうだろうか。ずっとずっとしつこく調査し続ける。密着の連載コーナーだ。手法自体は今のテレビは苦手ではないはずだ。
もしそれが実現できれば、そんなことを他の局はやっていないのだから、ユニークさで目立つ。しつこいほどやって、ある日とんでもないことが分かることもある。これであれば、確実に視聴率は取れる。調査報道は番組に力を与える。もし、記者が足りないなら、下請けでも何でも使えばよい。力を持っている者、ぜひともそれに参加したいジャーナリストはいくらでもいるはずだ。
 
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