月9「コード・ブルー」人命が助かるという即物的な感動に疑問

テレビ

スポンタ中村[ブロガー]
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フジテレビの月9ドラマ「コード・ブルー3」が好調である。

本誌「メディアゴン(http://www.mediagong.jp)」は、業界関係者も閲覧していると思うので、あえて指摘するが、「コード・ブルー」は〈アンチドラマ〉である。したがって、この作品を手本に月9枠を復活させようと思ってはならぬ。

小津安二郎監督の遺言は「映画はドラマだ、アクシデントではない」である。では、ドラマとは何か。その手がかりは、溝口健二監督が脚本家の新藤兼人氏に語った言葉「これはシナリオではありません。ストーリーです」にある。
小津・溝口というふたりの巨匠の言葉から類推するに、〈ドラマ〉とは、客が〈感情移入〉する主人公がいて、〈対立〉する登場人物との間で、意志と意志のぶつかりあうこと。
TBSの演出家・鴨下信一氏は、「今のドラマにはアンタゴニストが足りない」と「新・週刊フジテレビ批評」(2010年)で語っている。〈アンタゴニスト〉とは「対立関係にある登場人物」のことである。
「コード・ブルー」のあらすじはウェブにアップされているから確認すれば分かることだが、〈アンタゴニスト〉はきわめて弱いと言わざるを得ない。

若い頃、池端俊策氏(シナリオライター)に「創作の時に大切にするのは何ですか」と尋ねたことがある。池端氏の答えは「情熱の挫折」というもの。私はそれを、ドラマの主人公には「情熱を傾ける〈超目標〉」が必要であると考えた。そして、それが挫折する。〈アンタゴニスト〉が必要なのだ。

【参考】初回からネットざわめくドラマ「コード・ブルー」3rdシーズンhttps://mediagong.jp/?p=23405
「コード・ブルー」の場合、救急医療センターの医療従事者たちの物語だから、人命救助という〈超目標〉はあらかじめ存在する。したがって、ドラマを魅力的にする条件の一つは満たしている。
「ポケットモンスター」のシリーズ構成をしていた首藤剛志氏は、「設定はドラマではない」と指摘していた。つまり、設定は少なければ少ない程、濃密なドラマになる。たとえば、ドラマの中盤で、交通事故が起きたり、記憶喪失になったり、白血病になったりすると興ざめなのは、〈ドラマ〉を逃げて〈設定〉に頼っているからである。
「コード・ブルー」は「出来事」の集合体であり、そこで主人公たちが葛藤することはあっても、それが作品全体を包むような大きな〈ドラマ〉に発展することはない。
だが、私は「コード・ブルー」を否定しない。〈アンチドラマ〉の作品だが、高視聴率をあげているのは事実であり、それなりに楽しめる。ただし、ドラマの分類からいうと、これは〈叙事詩的〉な作品ということになる。
〈感情移入〉はできないが、魅力的な〈出来事〉が連なっている。それを楽しむ視聴者が存在するなら、作品を否定することに妥当性はない。〈ドラマ〉とは別の〈評価基準〉が存在するのだ。
実は、昨年夏に大ヒットした「シン・ゴジラ」も叙事詩的な映画だった。観客が主人公に〈感情移入〉することは難しく、登場人物の間の〈アンタゴニスト〉も希薄である。描かれているのは、ゴジラ来襲に対応する日本の意思決定機関の出来事の寄せ集めであり、意志と意志の力強いぶつかり合いとなって壮大な〈ドラマ〉を感じさせることはない。
〈ドラマ〉鑑賞という意味で、「シン・ゴジラ」に感動した人は皆無だったはず。しかし、映画はヒットしたし、楽しんだ人も多い。ならば、〈アンチドラマ〉として作品を分類すべきであって、作品を否定してはならない。
〈ドラマ〉とは本来、泥臭いものである。怪獣ものは怪獣ものに徹すべきであり、そこに恋愛や師弟愛や親子の情などは必要ないというのが、クリエイターたちのダンディズムかもしれない。しかし、怪獣が出てくるだけの映画で、観客が感動することなどありえない。
スペクタクルは、映画の魅力のひとつの要素であって、それだけを求めるなら、映画館など行かずに、グランドキャニオンやナイアガラの滝を観に行けばよい。
「シン・ゴジラ」はスペクタクル映画という意味で素晴らしかった。しかし、感動した人がいたのか。そして、「コード・ブルー」はどうなんだろうか。
豪華出演者たちが満遍なく登場するシーンは魅力的に違いない。しかし、ファンでない人たちにとってはどうなのか。人命が助かるという即物的な感動が、視聴者たちに「もう一度観たい」と思わせるのかどうか。深い考察が必要である。
 
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