「私、ミスチルが好き」という発言の真意は「何も好きではない」か?
高橋維新[弁護士]執筆記事
- 「あたしミスチルが好き」
- 「俺、松本清張の大ファンなんだ」
こういった言説が、いまいちピンと来ない。
別にミスチルや松本清張が嫌いなわけではない。筆者自身、松本清張は父から教わった。代表作に『点と線』『ゼロの焦点』『砂の器』などがあると教わった。当然、まずこの三作を読む。この三作は、素直におもしろかった。そこで次に、松本の他の作品に手を出してみる。ところが、この三作は流石に代表作と言われているだけあって、この三つよりおもしろい作品はなかなかないのである。
結局、他の松本作品を読み漁っても、何かすっきりしないまま終わる。一番最初に『点と線』や『ゼロの焦点』で味わった感動以上のものがやって来ないのである。だから、人に作家を紹介するときは、まずはその作家のつまらない作品から紹介してやるのも一つの手だと思うのである。
それはともかく、松本清張にも、ミスチルにも、作品には出来不出来がある。素晴らしい作品もあれば、そこまででもない作品もある。筆者も、『点と線』や『ゼロの焦点』は好きである。でも、けして松本清張が好きなわけではない。松本清張は(筆者にとっては)あまりおもしろくない作品も書いているからである。
なぜ「松本清張」という大きすぎるくくりで好き嫌いを論じられるのだろうか。「ゾウが好き」ならまだわかるが、「哺乳類が好き」というのはあまりピンと来ないんじゃないか? 筆者自身、陸棲の哺乳類は好きであるが。
もっと細分化はできる。
- 「『点と線』の冒頭の二行が好き」
- 「ミスチルのSignのBメロが好き」
というのがあってもいいはずである。そうやって細分化していくと他人の共感が得られにくくなるので、多分ある程度のところで妥協してフンワリとした表現にしているだけである。そうやって妥協点を探さないと、共通の趣味を見つけてコミュニケーションをとるということがしづらくなるのである。
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