<フジ『新しいカギ』>大きな可能性を感じる理由といくつかの注文
高橋秀樹[放送作家/発達障害研究者]
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2021年春改編で、最も注目している番組のレギュラー放送が始まった。フジテレビの『新しいカギ』(毎週・金曜日よる8時)4月23日の初回は2時間のスペシャル版だった。この番組に注目している理由はいくつかある。
・このところ増えてきたコント中心の番組であること。(筆者はコント作家であるため)
・コントを演ずる出演者(チョコレートプラネット、ハナコ、霜降り明星)が皆、コントというものが、実は芝居の一種であると気づいているのではないか思ったこと。
・事前に放送された(このときはCOVID-19でハナコが休演だった)特番を見て、大きな可能性を感じたこと。
で、今回見た感想である。
まず感じたことは、「無難に面白く仕上がっている」だ。更に「まだまだ面白くなる」である。たいてい最初に番組を作るときは、心配なので企画の数を盛り込みすぎる。麻雀でいうと、いわゆる多牌(タァパイ)で始まるのだが、多牌(タァパイ)がルール違反であるようにこのままでは失敗する。つくりはじめの最初からはどんどん引き算をする作り方をしていかねばならない。最初は数の多かった企画が「視聴率20%になったときは企画ふたつになっていました」というような経緯をたどるのが多くの成功番組の流れである。
これは一日の収録で例えても「企画3つ用意してたんだけど、撮れ高が良いんで一つでやめちゃった」となるのがよい。欲張って全部撮るより芸人に休みをあげることのほうがずっと大切。本音は楽したい休みたいのがほとんどの芸人だ。ディレクターには撮れ高を判断シて、収録を中断できる高度な見識が必要だということでもある。それから見た感想をもうひとつ「見ていて嫌だな、と感じることはひとつもなかった」これは無視されがちだが大事なヒット番組の要件だ。
さて、以下がひとつひとつのコントへの注文である。
「岡部のプロポーズ」
岡部が大事なプロポーズの一言を言おうとする瞬間、周囲もつい緊張して邪魔をしてしまうというコント。このコントの場合大事なことは「つい緊張して」の「つい」の部分である。台本には無責任に「つい」と書いてあったりするが、「つい」には理由があるはずだ、なぜ「つい」なのか考えること、「つい」の相当する芝居を入れるのが演者の仕事だ。今回は「プロポーズの邪魔をする動き」をやりに行ってしまっている。段取り通りの予定調和でネタを置きにいってしまっている。笑いは、やりに行ってはいけない。やりそうなときはやらなそうな芝居、やらなそうなときはやる芝居。基本。
「サカガミくんとオオタくん」
サカガミくんとオオタくんのモノマネネタだから、特に言うことはない。
「UzerEats」
いろんな変わった「UzerEats」の配達員がひとり暮らしの粗品のマンションにやってくる。粗品のツッコミを楽しむコントとして作っているのだろう。粗品は発想力もあり、芝居もでき、ルックスもそこそこで、関西の人には珍しく泥臭さではなくスマートさを持っている。だが、こうしたツッコミに回るととたんに大阪漫才のいわゆる「落としのセリフを連発するいらないツッコミ」になってしまう。「落としのツッコミ」と言うのはここで終わりという合図だ。だが、コントにおけるツッコミはそこで終わらせてはいけない。まだまだ面白く展開しなければならない。ほとんどが出落ちの「力が入りすぎる配達員」の場合、「顔が怖い」と言ってしまったら、それで終わり。「顔が怖い」といういじりをいかに違う言葉で表現するかがツッコミの真価。力の強い配達員に「潰すな」と言わないで「ちょっとそこで優しい気持ちになって」と、言えるのがツッコミのコントロール力。
「ゾンビに囲まれた家」
ゾンビに噛まれているのに、噛まれていない。自分は大丈夫と言ってごまかす、このごまかすを演じさせたらチョコレートプラネットの松尾はうまいとおもうけどなあ。
「登美男くん」
飛ぶ、バリエーションがっばってください。でも飛び方のバリエーションだけで持っていこうとすると単目なコントになるだろうから、、どうしようか。長く続けたいコントにするか、特番などの時のとっておきコントにするか。
「辛いのを我慢する」
コントの中に入れられたらなあ、コント外でやると、コントよりやっぱりマジが面白いとバレてしまう。鶴太郎やダチョウ倶楽部の「熱いおでん」はコントに入れ込まれて長生きした
「とったのをかえせ」
素晴らしいアイディア。
「シャドウボクシング街ロケ」
若い作家がやりがちだなあ。面白くないのを面白そうにやるのは見ていても辛い。面白うなことをやってみたがつまらなかったのは演者が辛い。演者の責任になってしまうから、編集でカットしてあげたい。こういうのもありながら、コント番組『新しいカギ』には更に大きく育っていってほしい。
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