<沖縄・琉球独立論者の意見>スコットランド独立問題で勢いづく革命や流血によらない独立論議

海外

保科省吾[コラムニスト]
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沖縄県はかつて「琉球」という名の歴とした独立国であった。
先日大きな話題となった英国からの独立を求めるスコットランドの住民投票。これは反対票が上回り頓挫。しかし、これを受けてスペインではカタルーニャ自治州(州都はバルセロナ)が、スペインからの独立を訴えて勢いづいている。
北部オランダ語地域の独立を目指す政党「新フランデレン同盟」が躍進するベルギー。人口約3500万人のカナダで、そのうち、約800万人を占めるケベック州は、80%以上が話すフランス語が公用語。1960年代から独立問題がくすぶり、80年と95年には住民投票を実施。いずれも独立派の敗北に終わった。
このように革命や流血によらず、民主主義の枠内で独立を目指そうという勢力は世界中にある。
こうしたニュースや解説が報じられ中、沖縄にも琉球独立を目指す勢力があることをテレビや新聞は全く取り扱わない。いや、とりあつかえない。知らないのかとも思う。
1609年(琉球暦万暦37年・和暦慶長14年)、薩摩藩は3000名の軍勢を率いて当時琉球王国の領土だった奄美大島に進軍。さらに沖縄本島に上陸、首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は4000名の兵士を集めて対抗したが敗れ、 尚寧王が和睦を申し入れて首里城は陥落した。これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納を義務付けられ、徳川幕府に使節を派遣した。
一方で明を滅ぼした清にも朝貢を続け、薩摩藩と清への両属という体制を取らざるを得なくなった。しかし、依然として琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持した。清からの使節がやってきた時は、薩摩藩の役人が、身を潜めこれをやり過ごしたという記録が残っている。
奄美群島は、薩摩藩直轄地となり分離されたが、琉球も奄美群島の支配を続けた。1871年、明治政府は廃藩置県によって琉球王国の領土を鹿児島県の管轄としたが、1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に任じて華族に列した。
明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった。これを琉球処分という。
第二次世界大戦後のサンフランシスコ講和条約で、沖縄はアメリカ合衆国の施政権下に置かれるものとされた。1972年(昭和47年)に、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還され。沖縄は、日本に復帰した。
この歴史の流れを見る限り、琉球は、自らの意思を行使する大きな権利を持っている。その中に琉球独立論があるのは十分に理解できる。
琉球には米軍専用基地のおよそ75%があるのは周知のとおりだ。琉球独立派から見れば、この状態は日本は基地という重荷を植民地とした琉球に押し付けていると見ることもできる。
日本の政治を今、牛耳っているのは、民族主義者(ナショナリスト)で親米という矛盾した存在である。親米だから、基地は動かない、集団的自衛権も認める。
ところが、琉球独立派は、民族主義者で反米というわかりやすい存在だ。ならば基地はいらない。そういう考えに立たなければ沖縄の基地は永遠になくならない、という考え方も成り立つのである。経済は大切だが、琉球が独立して経済的にやっていけるかという反論は、琉球独立派にとって、なんの障害にもならないだろう。
筆者は、琉球独立を支持するものではないが、この考え方があることだけはきちんと押さえておききたいと思うものではある。
[参考文献] 「琉球独立論」松島泰勝, バジリコ, 2014
 
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