<薄毛芸人を笑う「アメトーーク」は差別か>病気や障害でさえ本人が許容すれば「笑われること」は許される


高橋維新[弁護士]

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2015年6月4日に放映された「アメトーーク」(テレビ朝日)。テーマは、「薄毛芸人」だった。

「アメトーーク」でおもしろい回(=笑える回)は、何かをバカにする企画の時である。今回のテーマは、薄毛の芸人たち、つまり「ハゲ」という「フラ」(笑いの対象になるような、外見が放つ面白みや明白な特徴)を持った芸人たちを嘲笑う企画であるため、基本的には一定のおもしろさが保障されることが予想された。

そして実際の内容は、大体この予想の範疇であり、普通におもしろかった。大化けもしなかったことが惜しいところである。

番組では、薄毛ゆえに直面する問題、日々の生活での注意点、薄毛なのにそれができるだけ目立たないように行われている涙ぐましい努力が笑いの対象となっていた。見る方の笑いの根底にあるのは、「どうせアンタ薄毛なんだからそんな気にしてもしょうがないでしょ」という価値判断である。大して気にしてもしょうがないところをムチャクチャ気にしていることが、笑いを生むズレになっている。

これを指摘するのが、MCの宮迫博之(雨上がり決死隊)とゲストのザキヤマこと山崎弘也である。2人とも様々な例えを尽くして薄毛芸人の悲哀を笑いに変える。特に、ザキヤマはあそこまでポンポンたとえが出てくるのがすごいと改めて感じた。

ところで、宮迫も過去に育毛シャンプー「スカルプD」の広告塔になっていたことを考えれば、結構ヤバい状態になっていたはずである。ところが、ザキヤマも含めて出演者がその点に触れることは一切なかった。

ザキヤマは先輩相手に萎縮する人間ではないし、他にもここのところに気付ける実力派が複数いたので、単に忘れられただけとは思えない。宮迫の方が、自分の薄毛をイジるのを正式にNGにしたとしか思えない。

そのため、宮迫が安全地帯から薄毛芸人たちをイジる構造には少し「イジメの要素」が垣間見えてしまった。その点が終始鼻についたのが残念なところである。宮迫はたまにこうやってカッコつけるのが難点なのだが、芸人がモテようとしたりカッコつけようとしたりしたら終わりである

プロの芸人なのだから自分の一切合財全てを嗤われるのを覚悟してほしい。宮迫も「薄毛芸人」たちと同じフィールドに立って罵り合うことで、「醜い争い」のおもしろさが生まれるのである。この企画がいまいち大化けしなかったのは、ここが原因ではなかろうか。

まあ、何をやってもバカにされる芸人という職業を長いことやっていると、だんだんと嫌気がさしてくるというのは非常によく分かる。宮迫などは、ボケもツッコミもできて、芝居も歌もうまい非常に高スペックの芸人だ。今更わざわざ「ハゲのフラ」を足す必要もないし、何かをやれば褒められる役者の世界に行きたくなるのも分かる(これは、せっかくハゲてきたのに薄毛治療を始めてしまった岡村にも全く同じことが言える)。

ただ、あそこにいる薄毛芸人の中にも、わざわざハゲでいる必要もない人もいるのである。小杉竜一(ブラックマヨネーズ)には「デブのフラ」と的確なツッコミ力がある(ブラマヨが当初「ハゲとブツブツ」で売り出したという難点はあるが)。

カンニング竹山にも「デブのフラ」と「キレ芸」がある。原西孝幸(FUJIWARA)は挙動の神様である。それでも彼らは、宮迫や岡村のようにハゲを直さずに、薄毛のまま頑張っている。プロとして、彼らを見習ってほしいと敢えて苦言を述べたい。

ところで、テレビでこういう企画をやると、ハゲをバカにするのは良くない、というようなクレームが来ることは想像に難くない。

しかし、そういった番組に出ている薄毛芸人たちは、自分の薄毛やハゲを笑われることをプロとして許容しているため、バカにしてやって一向に問題ない。むしろ、バカにしてやらないと彼らから食い扶持を奪ってしまう。

ところが問題は当の薄毛芸人だけには止まらない。ハゲには、自分のハゲを笑われてもいい人と、笑われたくない人とがいる。分別のある大人であればそのへんはきちんと見極めながらハゲとの付き合いをするのだが、分別のない大人や、そのあたりがよく分かっていない子どもは、テレビでハゲをバカにしてみんなで笑っているのを見て、それを無思慮に真似てしまう。笑われたくないハゲのことも笑ってしまう。

結果、こういうテレビは「ハゲに対する差別を助長している」という批判に晒される。

こういった状態に対しては、どのような反論や説明があるのだろうか。まず、ハゲに対する差別を助長している面はどう考えてもあるので、そこを否定しても冷静な議論にならない。筆者が今のところ考えている反論は以下のようなものである。

「笑い」とは、通常からの「ズレ」を笑うものであって、それは通常人とは何か違うものを持っている人を対象としている。その違いを通常人が取り上げて笑うことは、常に差別の意味合いを含んでいる。「酔っ払い」を笑うのは「シラフの人」からの酔っ払いに対する差別である。年寄りを笑うのも若者からの年寄りに対する差別である。

笑いが差別を助長するからダメだという議論を突き詰めていくと、笑いが一切できなくなってしまう。それはそれで、許容できない結論だろう。薄毛芸人のように、自分の「違い」を笑われることを許容している人は笑ってもいいのである。そうでなければ、社会から「笑い」は死滅してしまう。

子供は、このへんがよく分かっておらず、時に笑われたくない人のことも笑ってしまうという間違いを犯す。

しかし、それを正す作業は親や学校や社会が「教育」を通して行うべきことであって、テレビその他の表現における笑いを禁止して行うのは筋違いである。

もっとも、他方でどう見ても「表現」の側がやり過ぎている場合(例えば、抗がん剤で頭髪を失った人を笑いの対象にするなど)もあるので、それは禁止されるべきであるが、基本的には程度問題である。

ただ、やり過ぎの表現というのは、大抵の場合視聴者が引いてしまって、笑いが起こらないので、自由市場に任せておけば淘汰されるはずである。言い方を変えると、やり過ぎのテレビは、差別を助長するからダメなのではなくて、おもしろくないからダメなのである。

もう一段階深い議論をする。

先ほど挙げた例だが、抗がん剤で頭髪を失った人の中にも、自分のハゲを笑われてもいい人はいるはずである。ところが、この国では「病気」「障害」など「可哀想な原因」が根っこにあると、それを笑うことが無条件に禁止されてしまい、「不謹慎だ」というバッシングを受けてしまう

当の本人が笑われることを許容しているのに、である。逆に、せめて笑ってくれた方がまだ救われるかもしれないのに、周りが腫れ物に触るように扱ってしまうのである。

それはなぜか。

おそらく、「(先述の)『可哀想な原因』でハゲた人は多くの場合ハゲを笑われたくないだろう」という判断があるからだと思われる。でもそれは「多くの場合」でしかないのであって、だからといって「可哀想なハゲ」を笑うことを一律に禁止するのは思考停止の大雑把な議論である。ハゲを笑われてもいい「少数派」を全く無視している。

この現状は、「可哀想な原因」でハゲた人がそれを活かしていく道を閉ざしているので、さっさとやめた方がいい。テレビでハゲを大っぴらに笑うのは、こういった現状に対するアンチテーゼとして働く側面もあるということを最後に指摘しておく。

 

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高橋維新(たかはし・いしん)弁護士、コラム二スト。1987年、東京生まれ。2006年、東京大学法学部入学。2010年より「マヒ郎」のペンネームでファミ通町内会へ「ハガキ職人」として投稿を始める。現役ハガキ職人を続けながら、2012年に司法試験合格。2013年、弁護士登録(函館弁護士会)。ファミ通町内会長(第5代)。