<映像が物語を凌駕する映画>「マッドマックス 怒りのデス・ロード」はストーリーを暴露してもネタバレにはならない


高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

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ドラマや映画や舞台、それらで描かれるストーリーとは何だろう。それを考えるためにいわゆるフィクション作品に必要な3要素を考えてみる。

それは「発想・構成・表現」だと言う人がいる。これだとすべてがストーリーに関わってくる。

「時間設定・人物設定・舞台設定」だという人がいる。これでも3つの要素すべてがストーリーに関わってくる。

「メッセージ・脚本・演技」だと言う人がいる。これでも、3要素すべてにストーリーが関わってくる。

日本映画の父と賞されるマキノ省三監督(牧野省三・1878〜1929)は、映画において大事な要素として、「スジ・ヌケ・ドウサ」を挙げる。この「並び」はマキノ監督が考える大切な順番であるである。

「スジ」は脚本、「ヌケ」は映像美、「ドウサ」は役者の演技であり、「仁義なき戦い」(1973)の脚本家・笠原和夫氏もそれを支持する。この場合は「スジ」がストーリーに当たるだろう。

筆者のドラマの3要素を挙げれば、それは「ストーリー・台詞・アイディア」である。

こうして概観すると、ドラマには(ここでのドラマの定義は映像や舞台で演じられフィクションすべてとする)ストーリーが不可欠だと言うことになる。では、ストーリーがないドラマというのは成立するのだろうか。

先日、30年ぶりの新作で第4作に当たる映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」(ジョージ・ミラー監督)を妻と見た。妻は内容には満足したようだが、見終わって「ストーリーがないね」と言う。そんなことはない、単純だがストーリーはある。

過去3作でメル・ギブソンが扮した主人公マックスを演じるのは、「ダークナイト ライジング」(2012)、「インセプション」(2010)のトム・ハーディである。

物語の舞台は、資源が枯渇し、法も秩序も崩壊した近未来の世界。愛する者を奪われ、荒野をさまよう主人公マックスは、砂漠を支配する凶悪なイモータン・ジョーの軍団に捕らえられる。そこへジョー配下の女戦士フュリオサらが現れ、マックスはジョーへの反乱を計画する彼女と力をあわせ、自由への逃走を開始する。

向かう場所は「緑のある地」である。しかし、目指す「緑のある地」はすでに荒れ果て姿を消していた。独裁者イモータン・ジョーの砦では、女は皆、子供を産む道具として扱われている。イモータン・ジョー以外の男は皆ウォー・ボーイズと呼ばれる戦士である。

立派なストーリーである。女が皆、子供を産む道具として扱われている世界で、フュリオサだけが女なのに戦士である理由などは描かれない。ふと疑問に思うが、そんなことはジョージ・ミラー監督にとっては、ストーリー上どうでもいいという判断なのだろう。

このストーリーがあれば、後は車の暴走と、戦闘のアイディアがどうなるかである。この映画でネタバレは、この戦闘シーンのアイデアをしゃべることである。ストーリーを明かすことはネタバレではないということになる。

前段で述べたマキノ省三監督の言葉を借りるなら、「マッドマックス」では「ヌケ・ドウサ・スジ」の順に大切にされていたことになる。

ストーリーが読み取りにくいドラマはあっても、存在しない作品はないと言うことなのだろうか。

 

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