遅すぎた?「めちゃイケ」の終焉が意味すること

高橋維新[弁護士/コラムニスト]
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2017年11月4日放映のフジテレビ「めちゃ×2イケてるッ!」(以下、めちゃイケ)を見た。今回は10月14日放映の岡村オファー2時間半スペシャルの「続き」である。
ただ、そこは今回オマケになってしまった(それなりにおもしろかったが、それなりである)。筆者をはじめ視聴者が注目したのはオンエアの直前にネットニュースで流れた「めちゃイケ来春終了」「早ければ今回のオンエアで発表」という情報の真偽だろう。
そして、それは真実だった。めちゃイケの生みの親である総監督(片岡飛鳥氏)の口から直接、ナインティナイン・岡村隆史に対して「めちゃイケの来春終了」が告げられていた。
めちゃイケ自体は、昨今は往年の輝きを一切失っていたため、早く終わらせてあげた方が良いと筆者は何度も述べていた。なので、特に終わることそれ自体に対する寂寥はない。その分、もっとおもしろい新番組をやってくれれば良いだけの話である。
当然、大番組の後釜をヒットさせるのが非常に難しいというのは経験的に知られているところではあるので、しばらくは、めちゃイケを実質リニューアルしたような番組が続くのかもしれないが、新しい番組のことはまだ情報が何もないのでこれ以上は語らない。
【参考】<コントは編集が命>「めちゃイケ」岡村オファーの編集は失敗か?
めちゃイケがおもしろくなくなったのは、多用していたドキュメンタリーコントという仕組みが耐用年数を過ぎたからだと筆者は思っている。
ドキュメンタリーコントとは、本当は台本のあるコントを、台本のないロケ番組やトーク番組のように仕立て上げる手法のことである。台本通りにボケやツッコミが展開されても、見ている方は自然な流れでそうなったものだと思い込むので、ハードルを上げずに見ることができる。自然体でトークやロケに参加している体の演者たちが(台本に則って)唐突にボケ始めるので、視聴者を裏切ることもできる。
そしてこの手法を下支えしていたのは、岡村と極楽とんぼ・加藤浩次(と山本圭壱)の演技力である。彼らがしっかりと(自然体でロケやトークに挑んでいる風の)芝居をしていたから、ドキュメンタリーコントをコントではなく自然体のドキュメンタリーに見せることができていたのである。
この手法は、間違いなく、事前に考えて作っておいた人工ボケを見せるコントである。ただもう多くの人が、人工ボケより天然ボケの方がおもしろいということに気が付いてしまっている。岡村みたいな人工ボケのキャラクターが生きていく領域は、確実に狭まりつつあるのである。
テレビで幅を利かせているのは天然と、天然を装っているけどそれがバレていないタレントたちであり、しっかりと力のある芸人の主な役回りは天然たちを補助するためのフリとツッコミになっている。
【参考】<「めちゃイケ」の堕落>工夫なき元バラエティの雄
インターネットでも、主力となっているコンテンツは「作り手が笑われることを意図しているわけではないがおもしろくなっているもの(=天然ボケ)」である。テレビのスタッフも、今やタレントを使う時は天然の(=自然体の)反応を引き出せるようなギミック(痛がるリアクションを引き出す辛い仕掛けや、世界のものすごい事物やイベントなど)を用意し、それを体験させるような番組作りに腐心しているだろう。
それが悪いと言いたいわけではない。天然の方がおもしろいのは明らかだからである。筆者は常に一番おもしろいものの味方である。
めちゃイケは、人工ボケを天然であるかのように見せる演出でのし上がった番組だった。位置づけとしては、コテコテの人工ボケと天然ボケの折衷案と言える「過渡期」のような番組である。めちゃイケの終焉は、その手法でのごまかしも効かなくなったことを意味する。
まあ、だから何だと言うわけではない。それでおもしろいものがどんどん増えていってくれるなら願ったりかなったりである。もう一度言うが、筆者は常に一番おもしろいものの味方なのである。
めちゃイケに限界に来ていたことはもっと前から分かっていたことであって、終わるからといって今更何か新しくいうようなことがあるわけでもないのかもしれない。ここに書いたことだって筆者が前々から何度も言っていることであり、正直、本稿も無理してひり出している。
何はともあれ、終わるまでのめちゃイケの最後っ屁を共に見届けようではないか。終わることが分かっている以上も怖いものはないだろう。退官間近の裁判官が思い切った判決を書くように、どんどん攻めていってほしい。何か当たりを出せれば、続けることもできるかもしれないのだ。
 
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