<大物になりすぎた「不良批評家」松本人志論>売れてテレビに出だしても漫才を続けたダウンタウン


高橋秀樹[放送作家]
2014年1月11日

 

ダウンタウンの松本人志は、不良派の批評家である。紳助竜介に憧れて漫才を始めたのがその証左のひとつである。

芸人は、売れてテレビに出だしても漫才を続けたダウンタウン〜大物になりすぎた「不良批評家」松本人志論[連載2]元始、テレビは太陽であった。、その理由はネタ作りが、死ぬほどの苦労を伴うからである。ボケを考え、それをさらに展開できるツッコミを考える。最初は面白いが次第にパターンに陥っていることに気づく。そのパターンを「壊す」には、それまでの倍以上の力が必要だ。それよりテレビの企画に乗っかって流しているほうがよほど楽である。

しかし、松本はテレビに来てもネタをやめなかった。『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』では、冒頭、浜田雅功とともに漫才をやり続けていた。僕はこの漫才が大好きだった。面白かったからである。漫才部分が終わって企画ネタに移るとテレビを消した。つまらなかったからである。この漫才は番組開始後20回ほどで終わってしまい、僕は番組自体を見るのをやめた。楽しみがなくなったからである。

この、オープニングのダウンタウンのしゃべりを漫才ではなく、トークだという人も居るだろうが、それは違う。トークのように見せるやり方の漫才がダウンタウンの新しいところだった。松本が鋭い批評眼で、一般人は気づかない不良としての視点で見つけた現象をしゃべる。浜田が、それを一般人の視点で見る人に通訳する。それがダウンタウンの漫才だ。

ダウンタウン以前にこのスタイルをとっていたのは、やすしきよし、紳助竜介である。笑いを取るほうの側である、やすしも、紳助も、そして松本も不良であるところが共通点だ。日本人の人気を得るためには、まじめや、誠実だけでは50%までだが、70%80%の人気を得るためには不良性をもたなければならない。僕は違う意味で嫌いだが小泉元総理や石原元都知事が、未だに人気があるのは不良性を持っているからだ。芸能人はヤクザな商売と表現するのは、あぶく銭をつかんだり極貧になったりすることだけでなく、そういった意味も含んでいる。

話を漫才に戻す。やすしきよし、紳助竜介、ダウンタウンの漫才で違う点は、ツッコミの性格である。きよしは常識人、竜介は小心者、浜田はヤクザの若頭として、相方である扱いに困る不良を諌める図式が成立する。若頭だから、この3組では浜田のツッコミが一番強い。強いツッコミがあるから、松本は自由に不良となれる。

ところが…

2013年末の『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時』の浜田はつらかった。カタカナの入ったタレントの名前を挙げるゲームで、言葉に詰まって何もいえない。誰も思いつかないことが面白くなっていれば救われるのだが、面白くもなっていない。浜田はツッコミに不可欠な反射神経がなくなってしまったのではないか。もし、ディレクターが、ダウンタウンのことを思うならここはきちんと編集してあげなければならない。コーナーごとカットしても良いくらいだ。浜田がこの状態だと、もうダウンタウンの漫才は成立しないのではないか。

松本が監督した映画は不勉強で見たことがない。しかし映画評はすべて読んだ。映画はうわさで不評を聞いただけだが、映画評はみな鋭い。映画批評家としては一流だと思う。このずば抜けた批評眼をもつ不良、松本人志のしゃべりの面白さを、どう生かして行こうと自分自身は戦略を練っているのだろうか。

それにしては松本人志は、大物になりすぎた。