<ワイドショウこそが最もテレビ的な番組だ>テレビは下卑た興味を持っている人を本位に番組を作っている

テレビ

高橋秀樹[放送作家]
2014年2月23日

 
「テレビは興味本位だ」という発言は、ほとんどの人がテレビに対する悪口だと、判断するだろう。しかし、これが悪口だというのはおかしな話だ。三省堂の大辞林によれば、【興味】とは、(1)物事に心がひかれ、おもしろいと感じること。おもしろみ。おもむき。 (2)ある対象に対して特別の関心・注意を向ける心的傾向のことであって、人間は興味を持っているからこそ、科学が発展し、哲学が人の心を捉え、文学が生まれたのである。興味本位は、人類発展の大切な礎である。
では、なぜ「テレビ興味本位論」は悪口なのだろう。
人の興味は実にさまざまである。頭のこんがらがる数式に興味を示す人もいれば、高尚な中国古典に興味を示す人もいる。一方で他人の不幸や、芸能人のゴシップや、金持ちの転落や、猟奇殺人事件に興味を示す人もいる。視聴率が至上命題であるテレビ局はそこで次のような判断をした。「テレビは人の興味関心にこたえるメディアである。ならば、視聴率と営業収益を上げるには、できるだけ数多くの人が興味を持っていることに焦点を合わせよう」。で、合わせに行ったとところ、その興味関心は総じて下卑たものとなってしまったのである。だから、「テレビが興味本位だ」が悪口だとすると、正確には以下のような表現になる。

「テレビは下卑た興味を持っている人を本位に番組を作っている」

ただし、この悪口にテレビ局の社長さんたちは、すぐこう反論するだろう。

「高尚な興味を持つ人に向けてテレビを作っても誰も見てくれないんではないでしょうか」
「それでは経営が成り立ちません」

悪口としての「テレビ興味本位論」のターゲットにされるのは、番組のジャンルを選ばない。子役に「ドンキ」(母が父を鈍器で殴打)、「ポスト」(赤ちゃんポストに捨てられた)、「ボンビ」(家が貧乏)と名前をつけたドラマも、嘘で興味を引っ張ったドキュメンタリーを装ったバラエティも、なかなか試合が始まらないスポーツ番組も、司会者が傍若無人で意味のわからないコメントをつける報道番組も、見る人のホンの少しの正義感を揺り動かしてしまったがゆえ興味本位のレッテルを貼られることになる。
こうした状況の中にあって、もっとも「テレビ興味本位論」のターゲットにされやすいのはワイドショウである。ワイドショウのメインディッシュは芸能スキャンダルと、事件だからである。ドラマを作っている仲間でさえ、「うちの主演女優のスキャンダルを扱ったら承知しない」といきまき、バラエティ番組を作っている同僚は、「俺たちはあんなことまでして視聴率がとりたくない」と、自分のことは棚に上げて怒り、報道番組はラーメン情報で番組の本質を忘れていることを反省せず、スポーツ番組は特定の運動選手を身びいきしていることを隠し、ワイドショウを批判する。
まるで寄生虫ように、捨てたいお荷物のように。しかし、見方を変えればこのワイドショウこそが最もテレビ的な番組だということにもなるのではないか。ワイドショウは、テレビのお荷物ではなく、牽引車なのである。
と、ここまではワイドショウ擁護の論陣を張ったが、ワイドショウは昔からこうした「下卑た興味本位」のつくりだったのだろうか。VTR倉庫にあった、草創期のワイドショウを見て、驚いたことがあった。そこではある大物俳優をゲストに招いて、今、公演中の芝居の話をしていた。今のワイドショウなら、浮ついたほめ言葉一辺倒になってしまうところだ。ところがそこでは芝居を見てきた司会者によってきちんとした批判たっぷりの劇評が行われていたのである。本来の意味での芸能ジャーナリズムが成立していたのである。
ちなみに「ジャーナリズム」の対義語は「アカデミズム」だそうである。「興味本位」の対義語が「眠くなる」だと読み替えたら、「ジャーナリズム」からも「アカデミズム」からも怒られるだろうか。