<追悼・菅原文太>今でもそらんじることができる「仁義なき戦い」広能昌三のセリフ


リチャード・ディック・ホークスビーク[古書店経営]

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小さな頃から映画館に通って覚えた「仁義なき戦い」のセリフ。映画館を出る時は、観客みんながまるで菅原文太のように肩で風を切って歩いていた。母親はこの映画を見るのを嫌がったが、変わり者の叔父は、筆者をこの映画に必ず誘って映画代金をおごってくれた。変わり者の叔父は真似するのも山守親分・金子信雄だった。

その主演、菅原文太さんが逝った。広能昌三が死んだ。

筆者にとっての菅原文太さんはあくまで、「仁義なき戦い」の広能昌三であって、トラック野郎では決して無く、社会活動家の菅原文太さんでもない。これはただの菅原文太ファンである筆者の特権だから許してもらおう。

「仁義なき戦い」の原作は、戦後の広島で実際に起こった広島抗争を題材とした、飯干晃一の小説だとされる。しかしそれは方便であったことを後日に知る。原作はモデルである本物のヤクザ・美能幸三が書いた手記であり、それを、取材してまとめあげた脚本家・笠原和夫の血の出るような綿密なシナリオハンティンッグの成果である。(「昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫」太田出版)

監督は言わずと知れた深作欣二。しかし、笠原和夫がホンを書いたのは「仁義なき戦い(1973年)」「仁義なき戦い 広島死闘篇(1973年)」「仁義なき戦い 代理戦争(1973年)」「仁義なき戦い 頂上作戦(1974年)」ここまでが本当の「仁義なき戦い」だと、僕は思う。2年で4作、ホンは完成していたのだ。

文太さんのセリフは今でもそらんじることができる。

広能「最後に言うといちゃるがのお、狙われる者より、狙う者の方が強いんじゃ。そげなこと考えると隙ができるど。」〜仁義なき戦い(1973年)

広能「のう。お母さん。極道なるいうたらですよ、産みの親を捨てにゃならんのですけえ。あんた、それでええんですか。」〜仁義なき戦い 代理戦争(1973年)

広能「広島の喧嘩いうたら、とるかとられるかで。いっぺん後ろに回ったら死ぬまで先頭をとれんのじゃけえ」〜仁義なき戦い 代理戦争(1973年)

監督・深作欣二(2003年逝去)、脚本・笠原和夫(2002年逝去)、金子信雄(1995年逝去)、川谷拓三(1995年年逝去)。そして、菅原文太〈2014年逝去)。

ご冥福をお祈りします。

 

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メディアゴン 編集部

メディアゴン編集部(めでぃあごんへんしゅうぶ)2014年5月末日、東京生まれ。メディア批評・メディア評論に特化したメディア専門家によるメディアニュースサイト。キー局プロデューサー、ディレクター、イベントプロデューサー、放送作家、大学教授、評論家、ゲーム作家、弁護士・・・などなど、メディアの第一線で活躍する人材が活動中。