<「サンデーモーニング」のミスリード?>番組コーナーを「少年犯罪でくくる」ことの強烈な違和感

社会・メディア

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事/社会臨床学会会員]
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6月14日のTBS「サンデーモーニング」内「風をよむ」のコーナーで、「少年犯罪」がテーマとしてとりあげられていた。筆者は、テレビに正対して、特に意識的に「きっちり視聴」したわけではない。いわゆる「ながら視聴」だ。
だが、多くの視聴者は筆者のような見方をしているだろうと思う。根拠のない推測かもしれないが、それを元に、本稿を書いている。
この番組を見てまず、感じたのは「少年犯罪でくくることの違和感」である、かつて、他の乱暴な番組のように「戦後少年犯罪は増え続けている」と言った誤ったデータを出さないのは、さすが老舗「サンデーモーニング」である。と言うか、当たり前か。
少年犯罪が最も多かったのは戦後の混乱期であり、それ以後は減り続け、ある時点から減り、並行に近い緩やかな右肩上がりになる。これを「増えている」と判断することは出来ない。「少年犯罪は増え続けている」と言う論理を展開したい粗製濫造番組がこういうデータを、知りながら伝えたと言うお粗末がかつて、あったのである。
「サンデーモーニング」では幸田真音氏が「少年犯罪は増えていないそうなんですが」と発言していたし、この番組のコメンテーターの民度は高い。
そうであったとしても筆者は「少年犯罪でくくることに強烈な違和感」を持った。なぜか。
こういう週間ニュースまとめものの番組では「ひとつの事件事故」で、一本が構成できるとき以外は「見やすいようにくくれ」というような力学が働くときがある。くくれば見やすくなって観る人が増えるだろうと言う幻想があるからだ。
ただ、この「くくり」がくせ者だ。震災には遭わなかったが移住した人でくくるとか、高齢者で海外移住したものの日本に帰国した人でくくるとか、交通事故被害者でくくるとか、この「くくり」に問題はあまりない。
ところが、「くくり」というのは、「なるほど、そうくくりましたか」と言うような意外性のあるものが面白い。世界の辺境にいる日本人等というのがこれに当たる。だから、この面白いくくりを無理矢理、恣意的に作り出してしまう時がある。これが視聴者に誤解を生む元になる。
今回の「サンデーモーニング」の場合は一見、無理矢理なくくりではない。VTRを作った人もおそらく無理矢理なくくりだとは思っていないだろう。「最近起こった少年犯罪」を紹介し、VTRは連想ゲームのように18歳から投票権が与えられるという話題に移っていく。
だが、このくくりは「無意識だからこそ危うい」ように思う。
立ち止まって考えてみるとわかるが、少年犯罪でくくることに何の意味があるのだろう。これは女性が起こした犯罪とか、栃木人が起こした犯罪で、くくることと全く差が無いことが分かるだろう。意味が無いのである。
意味があるのはそれぞれの犯罪の個別具体的な動機や背景、その実際を探ることである。くくることではない。少年犯罪でくくることで何が言いたかったのだろうか。
社会学に「エスノグラフィー」と言う研究手法がある。これは未開民族なら彼らと生活を長期間ともにしてその生活史を綿密に記述する方法のことである。ニュース番組などの場合、大事なのは、扱う事件に対して(外からの取材でもちろんよいから)迫るエスノグラフィーであり、ジャンルの似た(実は似ていないのにもかかわらず)事件を集めてみることではないのである。
今回の 「サンデーモーニング」でも、あるコメンテーターが最近の少年事件は「2極化しており、それは、訳の分からないものと残虐なもの」と言う趣旨の発言をしていたが、それはたまたまあった事件の現象面をなぞっただけである。
観ている人を「最近の少年事件は訳のわからないものと残虐なものに2極化しているんだよなあ」と言う、間違った感想にミスリードするだけなのだ。
居酒屋で「最近の少年事件は訳のわからないものと残虐なものに2極化しているんだよ」と発言しているような「番組を見たサラリーマン」もいるはずだ。
この2極化の例に当てはまるのは、報道されるものがあるからだけであり、実例はきわめて少ない。
 
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