<正視に堪えないバラエティ番組>アメトーーク「銭湯大好き芸人」は中途半端だがまだマシ
高橋維新[弁護士]
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2015年11月12日放映のテレビ朝日「アメトーーク」のテーマは、「銭湯大好き芸人」であった。
銭湯好きの芸人が「銭湯の良いところ」をしゃべる回である。筆者がバラエティ番組批評をする時には毎回同じことを言っているが、これは「何かを褒める回」に当たるので、ファニー(滑稽)さは基本的に足りない。
銭湯については、各芸人のお気に入りの場所がそれぞれ紹介されていたので、一企業とのタイアップ感やいやらしさは希薄だった(銭湯の側が「うちを紹介してくれ」と持ち込んだわけではなく、各芸人が本心から好きな場所を紹介しているように見えた)のだが、それにしたってさほど大きな面白味が生まれるわけではない。
しょぼくれた銭湯をバカにしたり、いわくつきの銭湯をいじったりした方が確実に笑いは生まれる。しかし、銭湯の魅力を伝えるという「インタレスティング(興味)」重視のバラエティに特化したと思われるので、あまり過激な文句はつけたくはない。
ただ、インタレスティング重視のバラエティをやるなら、もっと綿密に取材をやるべきであるし、芸人以外の喋れる知識人も出した方が良いだろう。もちろん、銭湯の裏側も伝えて欲しい。銭湯の運営側の話であれば、もっと聞きたいところである。
こういった「良質なドキュメンタリー」を作るための努力を怠って、芸人に適当にフワッとおもしろい話をさせてお茶を濁しているのが今回の中途半端な部分であろう。芸人が生み出すファニーさも「銭湯で見たおもしろい人」「銭湯であったおもしろい事件」などのぶつ切りのエピソードが大半であって、個々の質も大したものではない。
「ファニー」も「インタレスティング」も中途半端だから、両者を相互に補完させるために両奪りの中途半端な形でお茶を濁すしかないのである。両奪りでいこうとするから、「ファニー」も「インタレスティング」も中途半端にならざるを得ないという悪循環にも陥っている。
筆者は毎週「アメトーーク」にばかり文句をつけているが、別に「アメトーーク」以外の番組が優れていると主張したいわけではない。「アメトーーク」以外の番組は、「アメトーーク」以上に中途半端な形でお茶を濁していることが多い。
取材と分析の努力と能力が足りないから大したドキュメンタリーは作れない。大したドキュメンタリーにならないから、タレントを入れて、フワッとしたファニーな言動や美男美女のビジュアルでお茶を濁す。タレントを入れざるを得ないから、ギャラで製作費が圧迫される。結果として取材や分析に使えるお金が減り、ますますドキュメンタリーとしての質が落ちていく。
「アメトーーク」は、まだ「ファニー」に特化した回があるから持っているようなものだ。他の有象無象のバラエティは、正視に堪えないものが少なくない。
例えば、「NHKスペシャル」のような本気のドキュメンタリーにおいては、タレントは要らないはずである。取材して分かったことの内容自体に面白味があるので、それを淡々と順序良く伝えればよい。
この手のドキュメンタリーでも「ナビゲーター」などといったわけのわからない位置づけでタレントが起用されることがあるが、ここにギャラを払うのは全くもって製作費の無駄である。「ナビゲーター」が画面に出てくる時間も枠の無駄使いである。こういうところに芸能事務所とテレビ局との力関係からくる歪みの影響が出ている気がしてならない。
さて、本題の「銭湯大好き芸人」についてだ。
今回の「アメトーーク」は、流石に実力派が揃っていたので、おもしろさを発揮しにくい舞台設定でも高橋茂雄(サバンナ)・千原ジュニア(千原兄弟)・宮川大輔・川島明(麒麟)・秋山竜次(ロバート)の5人は奮闘していた。
ただし、一応「銭湯好き」というテーマであったため、「銭湯が好きすぎる変な人」という形でボケを出していければもっと良かった。
この5人に実力では劣る児玉智洋(ジューシーズ)は、銭湯検定4級という触れ込みであったため、ファニーに貢献できないなら銭湯のうんちくで頑張るしかなかったのだが、それすらできていなかったので反省すべきであろう。
また今回は、ひな壇の芸人は全員上半身裸にタオル巻という恰好で登場していた。銭湯芸人というテーマが分かりやすくなってはいたが、笑いにはつながっていなかった。しかも、少し寒そうに見えたうえに小汚いだけだったので、特にあの恰好にする意味はなかったのではないかと思う。
笑いにつなげるとすれば、体モノマネでいつも出てくる秋山のパンパンのボディやジュニアのガリガリさをイジっても良かっただろうが、そういうことはやっていなかった(他の4人は、イジりにくい中途半端な体型でしかなかった)。再考が必要だろう。
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