昭和天皇と美空ひばりの死を平成に絡めて書く朝日新聞の違和感

社会・メディア

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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8月28日の朝。編集部に「朝日新聞一面『平成とは プロローグ2』を読み、違和感を覚えました」というメールが来た。どこに違和感があったかは書いていない。筆者は既にこの記事を読んでいたが、改めて精読してみた。
本記事は、元学芸部記者で、現在は日田支局長の近藤康太郎氏(54歳)の署名記事。2面まで続く長文の記事で、タイトルは「ひばりの死 世紀の死」である。
まず、『平成とは』シリーズの意図をさかのぼって確認する。前日の記事(プロローグ1)にはこうある。

 「『平成とは』。今、答えは出ない。ただ、私たちも『平成のページからはみ出しそうなこと』を記録していきたい。プロローグ編では、5回に分けて時代を大づかみに論じてみる。」(編集委員 市川速水)

プロローグ1をまとめると以下のような内容だ。

*「不安な個人、立ちすくむ国家」と題された65ページの文書を、経済産業省の20代、30代の官僚30人がネット上に公開した。
*内容は「現役世代に極端に冷たい社会」「若者に十分な活躍の場を与えられているだろうか」。少子高齢化、格差と貧困、非正規雇用、シルバー民主主義などの現実を問題提起するものだそうだ。
*なかでも目を引くのは、「昭和の人生すごろく」という言葉。「昭和の標準モデル」を前提にした制度と価値観が、変革の妨げになっていると訴えるものだという。
*ダウンロードは140万回を超え、ネット上で賛否が渦巻いた。

これについては今や62歳になった筆者もその通りだと思う。賛成する意見だからではいく、感覚としてそうう状況はあるだろうなあ、と、よく分かる意見である。
【参考】安倍首相「読売を熟読して」発言は癒着ぶりの極み
さてそれに続く今回の「プロローグ2 ひばりの死 世紀の死」はどうか。
一読して確かに違和感がある。まず、文章の論理構成が破綻しているのだ。近藤記者は先輩記者が「・・・当時のことは、じつはよく覚えていない。無意識に、忘れようとしていたのかもしれない。」と言いつつ、ひばりの死について「特落ち」(他紙が特ダネとして扱っているのにその記事を出せなかったこと)してしまった事実を明らかにする。
とは言いながら同じ文章中で「ひばりの死は3紙(毎日 読売 朝日)とも1面トップ」とも書く。これは意味が分からない。
ひばりの死の扱いが小さかったのは「世紀の大事件のためだ。昭和天皇の死だ」とも書く。このあとに、どう文章が続くのか。読者が大きな期待を持つ展開だろう。この年1989年(平成元)には、1月7日の昭和天皇の崩御から始まり美空ひばり、手塚治虫、松下幸之助といった時代を画す面々が、この世を去っているのだから。
しかし、これらには全く触れず「ひばりさんの死」に話が戻る。
さらに記事は「・・・当時のことは、じつはよく覚えていない。無意識に、忘れようとしていたのかもしれない。」という全く前段と同じ前振りを使って、宗教学者・島田裕巳とオウム真理教の関わりについて書く。「・・・当時のことは、じつはよく覚えていない。無意識に、忘れようとしていたのかもしれない」と言う長文の修飾語の繰り返しはレトリックなのか、いまいち理解できない。
もうひとつ、最大の違和感は、亡くなった1989年時点での民衆が抱いていた美空ひばり感に関する記述である。記者はこの時26歳ほどである、筆者は34歳であった。
26歳の記者は「ひばりの死に、ファンの多くが昭和の死を重ね合わせた」と書く一方で、研究家の発言を引用して「(ひばりが)国民的歌手と呼ばれるようになるのは、死後のことだ」と書く。記者はどっちだと思っているのか。完全に矛盾している。
36歳だった筆者はひばりさんについては、もちろんその知名度や実力は知りつつも、

「国民的歌手だとは当事全く思わなかった」「『真っ赤な太陽』は大ヒットしたが、ヒット曲がないときも紅白に出る大物」

というのが正直な感想である。
その後、人に聞いたり調べたりして「12歳でデビューした天才少女歌手。演歌ばかりを歌う人ではなく、ジャズも見事に歌う」と言う早生の大物歌手であった、という印象は持ったが、ひばりさんの死に「昭和が終わった、国民的歌手が亡くなった」とは思わなかった。
26歳でひばりの死を知った近藤記者は、ひばりがどういう立ち位置の歌手か自分の判断を明らかにしないまま、54歳になった今、

「ひばり以後も国民的歌手は出ない」「なぜか。『国民』が死んだからである。平成とは国民が溶けていった時代だった」

と書く。そして、ここに至って筆者は近藤記者のやりたいことが分かった。近藤記者は、「平成とは国民が溶けていった時代だった」と言う結論に達するために、事象を集めて繋いでいったのである。このような結論ありきの書き方の場合、文章は違和感が出やすい。破綻していると思った時はすなおに掲載を取りやめるべきだったのだ。
「国民」「国民的」というものをどう定義するかの問題もあるが、まずもって「国民的」などは誇大な修飾語である。多くの人々が好もしく思った人や多くの人に嫌われない人はいたが、「国民的」などと形容してしかるべき人が、日本史の中に存在したことなどあるのだろうか。
そもそも、このイメージ上の定義である「国民」という実体のないものは「溶けてなどいかない」のだ。
 
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