[茂木健一郎]<本物の変人は無自覚>「変人の自覚」が無いことが「本物の変人」の証
茂木健一郎[脳科学者]
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世の中には変人が時々いて、私は大好きなのだが、当然、変人には困ったことがいろいろある。
一番の問題は、変人には、自分が変人という自覚がないことがほとんどということ。つまり、変人は「無意識の変人である」というのが、定義のようなものであるとも言える。
周囲から見れば明らかにヘンなのに、本人にその自覚がない。自分のやり方が普通だと思っている。
「お前、ヘンだよ」と言うと、「いや、そんなことはない、自分のやり方は普通だ」と反論する。そのような人が本物の変人である。
逆に、やたらと「私は変人です」「私ヘンでしょう?」と言う人は、何らかの理由で変人にあこがれ、変人になりたいと願う「変人ワナビー」であって、真性の変人ではない。その価値観は案外常識的だったりする。
変人になりたいワナビーがまともで、本物の変人にその自覚が無いのだから、世の中は難しい。
ところで、変人に「自分のやり方がヘンだ」という自覚がないのは、案外、変人という存在の本質に関わることなのかもしれない。自分のやり方のここがヘンだと認識し、それを世間の常識とずれているからと抑制してしまっては、もはやその人は尖がった変人ではない。
また逆に、変人のヘンなところがなぜか世間から拍手喝采されると気づき、ことさらに変なところを強調したり、派手に自己演出したりするようになると、変人の無為自然が失われてしまう。
そこに「賢しら(さかしら:物知りぶる)」が生まれる。おそらく、変人のヘンぶりも、どこかぎこちない、こわばったものになってしまうだろう。
「薔薇が美しいのは、自分が美しいということを知らないからである」
と開高健は言ったが、同様に、
「変人が魅力的なのは、自分が変わっているということを知らないからである」
ということが言えるだろう。
美にせよ、ユニークさにせよ、その根幹に無自覚があるのは面白いことだと思う。
(本記事は、著者のTwitterを元にした編集・転載記事です)
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