エンタメ商業イベント化した東京五輪開催の是非

社会・メディア

物部尚[エッセイスト]

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筆者は、商業主義、エンタテイメント第一主義に堕したオリンピックは縮小すべきではないかと考えている。

「近代オリンピックの始祖クーベルタンは『オリンピックは参加することに意義がある』と述べた」という有名な文章には2つの誤りが含まれている。ひとつめは発言した人物について。実際は礼拝のためにセントポール大寺院に集まった英米両チームの選手を前に、主教が述べた言葉がもとだ。ただし、クーベルタンが、近代オリンピックの理想を『参加することに意義がある』と思っていたことは確かである。

近年のオリンピックを見て、「そうはなっていないなぁ」と感じているのは筆者だけではあるまい。オリンピックをやらなくても世界的レベルの競技会があるゴルフ、テニス、サッカー、野球、バスケットボール、マラソン、自転車、陸上短距離、ラグビー、ボクシング、フィギュアスケートなど、商業的に成功しているスポーツなどは、改めてオリンピックで世界からプロを集めて世界一を決める必要もあるまい。

[参考]2020年の東京五輪はオリンピックとパラリンピックを同時開催すべき

ましてや、トッププロの中には、新型コロナウイルスの感染地域である日本に来ることを拒否する人もいるだろう。過去には実例もある。新型肺炎の流行は不幸だが、これを時機ととらえて、2020東京オリンピックは小さな大会にして(それでも充分大きいが)延期開催すればよいと思う。

さて、クーベルタンの言葉『オリンピックは参加することに意義がある』の2つ目の誤り。それは分かりやすく簡潔にしたために潜り込んでしまった誤謬である。

1908年のロンドン大会は英米両チームのあからさまな対立により険悪なムードだったと言われる。開催中のある日曜日、礼拝にやってきた対立する英米選手を前に、さきほどの主教が述べた戒めの言葉が「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」なのである。

クーベルタンも思いを同じくし「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる」と、考えていたとされる。

しかし、その思いは無視され、1936年ベルリンオリンピックは、ヒトラーによってナチスドイツの国威発揚に利用された。大会は「ナチス党のお抱え監督」と呼ばれた女流映画監督レニ・リーフェンシュタールによって2部作の記録映画『オリンピア』となった。

この、国家による争いという形式が筆者は嫌いだ。選手達はなぜ国家を背負って戦わなければならないのか。2019ラグビーワールドカップ日本大会における、国籍を超えたチーム編成の、なんと清々しかったことか・・・と筆者は痛感した。(もちろん多国籍チームの編成が大英帝国の植民地主義を起源とすることは知っている)

アメリカなどによって国家第一主義が世界を覆いそうになっている今だからこそ、「オリンピックの見直し元年」とするべきなのではないか。

 

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