<五輪も舞台も自粛すべき>エンターテインメントは「不要不急」である
高橋秀樹[放送作家/発達障害研究者]
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エンターテインメントは「不要不急」である。
この筆者の主張には「そんなのは当たり前だ」という意見と、「人の心に潤いを与えるのだから、必要不可欠だ」という強い反対意見があるだろう。たとえば、劇作家・俳優の野田秀樹は「一演劇人として劇場公演の継続を望む」とし、(新型コロナウイルス感染予防のための)劇場の閉鎖は「『演劇の死』を意味しかねません」と訴えている。
しかし、筆者はやはり、エンターテインメントは「不要不急」である、と思う。エンターテインメントは「必要火急」ではない。
長年、放送作家としてエンターテインメントを作ってきた筆者から見ても、やはりエンターテインメントは「不要不急」だ。この思いを筆者自身の来歴を通して考えてみたい。
筆者は1955年(昭和30年)に山形県天童で生まれた。天童には映画館が2軒あったが、行ったことは一度しかない。映画館に行く者は不良と言われたし、それより何より60円ほどの入場料金を子どもに与える余裕が家にはなかった。
熊野神社の祭礼には急ごしらえの舞台が組まれ、漫才のようなものをやっていたが少しもおもしろくなかった。それよりカルメ焼きが食いたかった。温泉のストリップ劇場の子どもが友達で、潜り込ませてもらったときは息が止まるかと思った。サーカスの子が一週間だけ、転校してきて、すぐさま友達になった。バイクの宙乗りを見たが、客席ではなく舞台袖で見ることになったので、爆音とタイヤの模様しか、記憶に残っていない。
夜はラジオを聞いていた。お気に入りは『赤胴鈴之助』だったが、ただで聞けたので家のひとは、なにも文句を言わなかった。家に白黒テレビがきたのは小学校3年生の時だった。郷土の誇り柏戸が横綱だったので、対戦が始まる前に近所の人に大声で知らせに行くのが筆者の役目だった。実写版の『鉄腕アトム』を見ようとしたら、突然、映らなくなって、ガンガンテレビをたたいた。
中学校にプロの合唱団がきた。クラッシックだったのだろう。曲名さえ記憶に残っていない。読書感想文発表イベントがあって、発表者に選ばれたが、盗作だったので慌てた。深夜に起き出し、家族に隠れて『11PM』を見るのが日課だった。
やがて高校生になって、山形市に出た。初めて女の子と、映画に行けた。マーク・レスターとトレイシー・ハイドの『小さな恋のメロディ』を見た。700円だったかなあ。2人分払ったので、小遣いの大半がなくなった。
カラーテレビもやって来た。永山則夫、田宮高麿、岡本武、小西隆裕、天地真理、南沙織、小柳ルミ子、大橋巨泉、『シャボン玉ホリデー』、クレージーキャッツ、四畳半襖の下張、大久保清、三島由紀夫、林家三平、立川談志、トイレットペーパー買い占め、金大中、コント55号、浅間山荘事件、キャンディーズ、山口百恵、Wけんじ、獅子てんや・瀬戸わんや、てんぷくトリオ、トリオスカイライン。しかし、ザ・ドリフターズはネット局がなく見られなかった。
高校時代に一度だけ、県民会館という所に行って、コンサートを聴いたことがある。グレン・ミラー・オーケストラというのが渋すぎる。
[参考]オリンピック特需とコロナ隠し
高校を卒業後、早稲田大学第一文学部に補欠で入学し、東京で寮住まいをした。サークルは落語研究会に入った。残念なことに志ん生、文楽には間に合わず、6代目三遊亭圓生、5代目柳家小さん、3代目古今亭志ん朝、5代目三遊亭圓楽、7代目立川談志、3代目桂米朝などを聞いた。
当時は演劇なんていうのがかっこいい時代でもあった。笑いの芝居は2つの下禁断が全体を引っ張っていた。下北沢本多劇場で佐藤B作の劇団東京ヴォードヴィルショーを見た。渋谷のジャンジャンで柄本明の東京乾電池を見た。高田純次がまだ座員だった。
笑い以外も見た。PARCO劇場で東京キッドブラザースを見た。早稲田小劇場で白石加代子を見た。東大駒場の食堂で夢の遊眠社を見た。つかこうへいの『初級革命講座 飛龍伝』を見た。観劇料が足りないのでバイトと麻雀で稼ぐのに忙しく、大学を中退した。テレビ制作のADを経て、放送作家になり、テレビ業界で一定の職を得るようになった。
放送作家になってからも、芸能人という人には近寄りがたかった。なぜなら筆者は、芸能人をみな尊敬していたからだ。理由は、芸能なんていう不安定なものに人生を賭けてしまった人々だと思ったからだ。一番先にいらなくなる職業にのめり込んでいる人々を畏怖した。放送作家もまた同じだが、どこか保険を掛けている感じは、芸能人より潔くない。
『金曜娯楽館』で所ジョージと木の葉のこのコントを書いた。『オレたちひょうきん族』でタケちゃんマンを書いた。『欽ドン』で、萩本欽一とイモ欽トリオのコントを書いた。数限りない商業演劇や歌舞伎を見たし、自分でも書いた。もちろん一生懸命書いたが、この芝居に一万円ものチケット代を使う人が大勢いるのが今もってふしぎだ。決して卑下しているわけではなく、見なくてもよいモノ、不要不急なとモノだと思うからだ。
筆者なら一万円の使い道の第一選択肢はお酒とごはんだ。
新型コロナの感染防止で、エンターテインメントの舞台が中止になると、そこで働くフリーの人は収入が途絶える。小さな劇団の座員などは日銭で暮らしているだろうから死活問題だ、バイト先の飲食店も営業自粛。では、なぜ、日本のエンターテインメント界はユニオンを結成するなどの方向に進んでこなかったのだろう。音響マンの組合や、舞台監督の組合、大道具・小道具係の組合、メイキャッパーの組合。芝居や公演に際し、巨大な商業資本に首根っこを押さえられて自由がきかないからだ。ユニオンさえあれば政府の財政援助ももう少しスムーズに行われるだろう。
最後に付け加えたいことがある。
スポーツの超人達の祭典「オリンピック」や「パラリンピック」も商業主義に乗っ取られたエンターテインメントのひとつであるから、筆者としては不要不急であると考える。不要普及なエンターテインメントはひとまずやめればよいのだ。
不要不急のエンターテインメントを業とする者は、不要不急が解除されたときに大暴れすればよい。それが不要不急を業とする者の矜恃である。
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