<テレビ番組制作の技術>凡庸な「美味しい」をいかに魅力的な「美味しい」に作り込むか?

テレビ

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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情報をどのようにテレビの番組にしていくのか、これはいつも悩みの種だ。
知ってもあまり価値のないものにいつまでもしがみついていてもしょうがない。かといってちょっと深彫りすれば良いものをすぐ諦めてしまってもいけない。すぐ諦めることが出来るほど情報がふんだんにあるわけでもない。皆、ぎりぎりのところでやっているのだ。
筆者はかつて若いディレクターと組んで、あるテレビ番組のコーナーを作ったことがある。こういうケースはママあることなのだが、このときも案の定、若いディレクターは悩みまくった。ネタが難しかったかもしれない。「明石の鯛」をネタにしてコーナーにしようというものだった。
「明石の鯛」をいろいろ調べても、人が目を見張るほどのネタが出てくるわけではない。結局は明石へ行って船に乗り、鯛を釣り上げてレポーターが食べる、これしか思い浮かばない。何故おいしいのか? ということになるが、結構誰もが知っている「明石海峡の渦にもまれて身がしまっている」などをを漁師が説明する、という凡庸なことに落ち着いてしまう。
その若いディレクターは暗澹たる気持ちになっていた。初めてのディレクターである、何とか面白いものにしたいと勇んではいる。だが目の前の待っているネタは通俗、凡庸のみである。
若きディレクターは粘りに粘った。何か他と違うものがないか。たとえばおいしい独特の食べ方はないか。だが若きディレクターの納得するようなネタはなかなか出てこなかった。
そうやって苦しんでいると、ようやくやっとひとつの情報が入った。
「明石の鯛」の本当においしいものには「こぶ」があるというものだった。「こぶ」は背骨に出来るらしい。真偽のほどはわからない。しかし。話としては面白そうに思えた。だが、問題はそれをどう表現するかだ。ただ裁いて「こぶ」のあるものを見つけ、結局それを食べてコメントをするだけだったら、面白さは伝わらない。食べる人の表現の仕方にただ頼るだけだ。
この「こぶ」を何とかありがたがらなければならない。ネタに仕立て上げなければならないのだ。もちろん、外から見ただけでは「明石の鯛のこぶ」はわからない。しかし、一流の漁師であれば、それはわかるという。本当にわかるのか? そこに着眼して追いかけることにした。
まず、「こぶ」のある鯛が釣れると、誰が買うのか? それを追跡してみた。鯛は一匹のまま流通する。外から見ただけでは「こぶ」があるかないかわからない。つまり、鯛をさばいて、初めて「こぶ」の有無がわかるということだ。
「こぶ」のある鯛は、普通の鯛の倍以上の値段になるという。誰が買っていくのか、仲買を追跡する。この引張りがもつのか、やりすぎではないのか、いくらかの不安はあったが、追跡を敢行した。
そして我々は早朝の京都に車は入っていった。鯛の納入先は京都の高級料亭だったからだ。料亭の板前が鯛をさばく。本当に「こぶ」があるのか、なかったらネタが成立しない、さまざまな心配がよぎる。だが、仲買も自信満々だった。わかるというのだ。
するとたしかに、目の前の鯛には「こぶ」があった。しかも「こぶ」はひとつではない。塊になっていた。明石海峡でもまれた鯛だけにできるという。板前には上質の鯛を仕入れた達成感があるように見えた。さすが明石の鯛だ、と言いたげだ。
鯛は刺身となって客に出された。食べる瞬間は映すことはできなかった。しかし、視聴者に「明石の鯛」のありがたみは伝わったと思う。
どうおいしさを表現するかは難しい。ただ「おいしい」といっただけでは、実感は伝わらない。だがプロのこだわりを伝えることは出来る。ありがたみを伝えることも出来る。
味をそんなやり方で伝える方法もある。
 
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