<ネタバレ注意・又吉直樹「火花」を読んでみた(2)>文学に純も大衆もない。面白いか否かがあるだけである。


高橋維新[弁護士]

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(その1はこちら:http://mediagong.jp/?p=11071

何かと話題の芥川賞受賞作・又吉直樹著『火花』(文藝春秋)。この作品は、純文学というジャンルに属すると一般的には理解されている。

「純文学」というものの中身については論争があるらしいが、百科事典の類をひもとけば、

「娯楽性や大衆受けを意識せずに、専ら作者の芸術的興味によってのみ書かれた文学作品」

というような意味であることが掴める。ここで対置されている「娯楽性や大衆受けを意識した小説」は「大衆小説」とか「通俗小説」とか呼ばれている。このジャンルで重視されているのはエンターテインメント性、すなわち「読者がその小説を読んでいい気持ちになれるか」であり、更にその背後には「大衆にウケる小説を作って儲けたい」という作家や出版社の思惑がある。

これもよく言われることであるが、芥川賞は純文学を対象にしており、直木賞は大衆小説を対象にしている。

このように、読者を楽しませ、作家や出版社を潤す「大衆小説」の存在意義は明らかなのであるが、こういった点を軽視あるいは無視している「純文学」の存在意義は必ずしも明らかではない。作者の「芸術的興味」によって書かれた文学らしいが、この「芸術的興味」という言葉にそもそもつかみどころがない。

作者が書いて楽しいというのであれば、わざわざそれを他人に公表する必要はないし、まして出版社の力を借りてまで大々的に売り出していくようなものとは思えない。そもそも娯楽性やエンターテインメント性を軽視あるいは無視している「純文学」は、単純に読んでおもしろいものではないので、売れないものは少なくない。

『火花』も、エンターテインメント性は皆無であるため、正直なところおもしろいわけではない。

たまに、芥川賞などで話題になった作品(『火花』もその一つである)や非常に高名な作家(代表的なのは村上春樹)の作品が売れるという「間違い」が起きたり、多少なりとも娯楽性を帯びた作品が読者にウケたりするが、そういうのは一部の例外である(なお、純文学と大衆小説はスパッとクリアに二分できるものではなく、個々の作品が持っている娯楽性と芸術性には様々な濃淡があるため、実際には中間に様々なレベルがあることには注意を促しておく)。

それでもなぜか純文学というものは確固として存在しており、作者が書いて自己満足を得るに止まらず世に公表され、出版社という営利企業がこれを大々的に売り出し、少なくない数の読者や研究者が興味・研究の対象としている。

それはなぜか。

筆者の理解では「純文学」というのは、「(エンターテインメント性には乏しいが)小説を通して何か言いたいことがある」作品のことである。純文学に止まらず、詩や歌にしても、絵画や彫刻にしても、映画や演劇にしても、エンターテインメント性には乏しいのに世に公表される「芸術性志向」の作品は、全て作者にその作品を通して何か言いたいことがあるのだと筆者は考えている。

今回の『火花』の場合であれば、

「自分らしく生きることは素晴らしいことだけど、人間は必ずしもそれを貫けない弱い存在なのだ」

「芸人は自分らしく生きようとするととりもなおさず自分らしさを殺さざるを得ない悲しい存在なのだ」

ということが「言いたかった」のだと思われる。要は、自分の「言いたいこと」(「主張」と言い換えてもいい)を作品に仮託し、それを「小説」という物語の後ろに押し込めて隠蔽したのが純文学なのである。

ここでまた立ち止まって考えてみる。この「言いたいこと」というのは、作者の主張なのであるが、小説という形で物語にしてしまうと、間接化されてしまい、読者に十分伝わらない危険性がある。

本稿における『火花』の言いたいことの考察も筆者の推測に過ぎない。そうであれば、物語などという持って回った手段をとらずに、「主張」を生の剥き身のままに「評論」として伝えた方がよほど効率がいいと、個人的には考える。「自分らしく生きることは素晴らしいことだけど、人間は必ずしもそれを貫けない弱い存在なのだ」という主題の評論を書くのである。

他方で、物語化することのメリットもある。物語というのは、要は比喩なので、小難しくて抽象的な主張を具体事例に置き換えることで、分かりやすくなるとともに、訴求力が増す。

別の例を挙げるが、「お金ばかり追求している人の人生は貧しいので、いずれ破滅を迎える」ということを言いたいとする。これを物語に仮託すると、以下のようになる。

「大富豪が乗ったジャンボ機が、無人島に墜落しました。生き残ったのは、大富豪としがないサラリーマンの男一人。無人島には木の一本も生えておらず、食糧にできそうなものはありません。大富豪の空腹はどんどんと増していきます。ふと、サラリーマンの方を見ると、懐に忍ばせていたお菓子を食べて飢えをしのいでいました。そのへんのスーパーで売っているような安いお菓子です。大富豪は、一つが何百万円も何千万円もするような指輪をいくつも身に着けていました。彼は、『貧乏人』に取引を持ちかけました。『どうだ。ここに高い指輪がある。これとそのお菓子一つを交換しないか。破格の取引だぞ。これは生還してから売ればお前の年収何年分のお金がすぐ手に入るんだ。それとそのやっすいお菓子を交換してやろうというんだ』『貧乏人』は、大富豪の言葉が途切れると、お菓子をぎゅっと抱きしめて、ぷいっとそっぽを向いたきり一言も発しませんでした」

まあ、この「物語」もそこまで上手いものではないと思うが、上記の抽象的で無機質な主張が具体的なエピソードに充填されることによって、分かりやすくなるとともに、感銘力が上がるのが分かっていただけると思う。

ただ、前述のデメリットも表裏一体に生じることも分かると思う。

まず、一目瞭然だが、文章の分量が多く、長くなる。次に主張自体は物語の裏に隠れてしまうので、ともすれば何を言いたかったのかがぼやけてしまい、誤解・曲解の危険も生じることになる。

ただ後者の点は、作者がきちんと言いたいことを別の形で明確にして「答え合わせ」をしてくれれば、解消できることである。にもかかわらず、少なくとも日本の作家にはこのような形で答え合わせをしてくれる人がとても少ないという印象を持っている。

『火花』についても、又吉が「この小説を通して言いたいのはこういうことでした」ということを公の場で発表してくれたというのは知らない。筆者が今のところ知らないだけかもしれないが。

書いた本人が答え合わせをしてくれないので、他者が作品を読んで言いたいことを推測するしかない。この「推測」が文学という学問であり、この作業を日々やっているのが文学者だと筆者は思っているが、巷間にあふれる様々な文学作品について、何が言いたかったのかを考察する論文や私的研究は膨大な量があふれかえっており、議論は収拾がついていないことの方が多い。

高名な純文学作家が何かを書けば、それを考察する語句言説が何倍もの分量で登場し、「俺はこれをこう読む」「いやその読み方は違う」という議論が喧々囂々巻き起こる。

結局、その作家が言いたかった「何か」は雲隠れしてしまってよく分からなくなる。それもこれも、作家が「何が言いたかったのか」を後から明らかにしてくれないからである。状況としては、非常に非効率なのである。

何か言いたいことがあるのに、他者にはそれが十分伝わらないのである、作家がその状況を容認しているのはなぜなのか。ここからは筆者の推測だが、2つの理由が考えられる。(1)言えないからか、(2)言いたくないからである。

(1)の言えないからというのは、作家は物語を書いただけで、その物語を通して何を言いたいのかは自分でもよく分かっていないのではないか、ということである。だから答え合わせもできず、他人がやいのやいの言うのを静観しているしかないのである。

先ほどの例に戻るが、「大富豪の話」から「お金ばかり追求している人の人生は貧しい」という主張を見抜くには、一定の能力が必要である。文学者になるような人はその能力に長けているのだろうが、当然この能力に劣っている人というのもいる。

作家には、物語は書けても、そこから何か裏にある主張や論理を抽出するのは苦手あるいは不可能な人が多いのではないだろうか。だから、自分が書いた物語で何が言いたいのかも分からず、答え合わせもできないのである。

特に、私小説と呼ばれるジャンルにおいては、自分が見聞きしたことをそのまま文章化すれば小説が出来上がるので、そこから何が読み取れるかを書いた本人は分かっていない場合が多いと思われる(そして、筆者は純文学のほとんどは私小説に還元できると思っている)。

逆の見方をすると、主張の側から物語を組み立てるのにも能力が必要であり、それは物語から主張を抽出するのとは全く別の能力である。小説家には、何が言いたいのか分からないままに本能的に物語だけを書きあげてしまうタイプの人の他に、言いたいことがまずあって、それを読者に分かりやすくかつ訴求力をもって伝えるために、そこから物語を組み立てていくタイプの人がいていいと思う。

後者のタイプであれば、まず言いたいことが分かっている状態から執筆が始まるので、「答え合わせ」も容易にできるはずである。

それでもこのタイプの人も沈黙することがある。それは、(2)言いたくないからだとしか考えられない。

なぜ言いたくないのかといえば、背後にある主張を暴露した瞬間に全てが陳腐化してしまうからだと考えられる。前述の例であるが、「お金ばかり追求している人の人生は貧しい」などという言説は、すでに言い古された極めて凡庸な言説である。

今回『火花』で筆者が考察した「自分らしく生きることは素晴らしいことだけど、人間は必ずしもそれを貫けない弱い存在なのだ」という言説も、ここにまで分解してしまえば、どこかで既に見たような、とても陳腐なものになるのが分かっていただけるだろう(筆者の考察が間違いであり、そんな陳腐なことが言いたかったわけではないというのなら、又吉にはきちんと「答え合わせ」をしてもらいたい)。

物語の裏にある言説を分析していくと、「人殺しはいけない」だとか「男と女はどうやっても惹かれあうものだ」とか「他人とはどう頑張っても分かりあえないのだ」などというわざわざ言うまでもない陳腐な主張に還元されてしまうことは往々にしてある。

これを暴露することは、作家自らが「私の書いた小説は、まあそんなに大したことが言いたかったわけではないです」と吐露するに等しく、作家の虚栄心からそれはやりにくいはずなのである。

まとめると、純文学というものの存在意義は、物語に仮託して何らかの主張を分かりやすくかつ訴求力をもって他者に伝えることにあるが、作家の能力不足あるいは見栄によってその目的は十分果たされておらず、文学者をはじめとする他者がその「言いたいこと」を外から推測するしかなくなっているため、結局何が言いたいのかも十分に伝わらず、却って読者を混乱させるという極めて非効率な事態に陥っているということである。

作家や文学の愛好者は「文学は色々な読み方があっていい」などとこのような状況を積極的に容認するような発言をすることがあるが、これを不健全だと思うのは筆者だけだろうか。

それこそ、自分を守るために敢えて本心にはないことを言っているだけではないだろうか。

【注】この文章は、評論であり、物語ではない。筆者の言いたいことを、物語に仮託せずにストレートに生のまま伝えている。これを物語化できれば(例えば自分が何が言いたいのかが自分でも分からない小説家の悲哀を描く、というような形)分かりやすくかつ訴求力をもって伝えられるのかもしれないが、筆者はその能力に乏しい。そのため、筆者は物語を書ける作家をうらやましく思っている。

ゆえに、本稿で作家のことを「物語から主張を抽出する能力がない」だとか「見栄を張っている」だとか貶めていたのは、物語を書く能力を持たざる者(筆者)から持つ者(作家)に対するルサンチマンに基づく可能性は大いにある。

そのために、事実を(無意識に)歪めてまで作家を貶している危険性があり、そのことは怖くもあるのだが、筆者の言っていることは正しいと信じたいし、信じることにしている。(了)

(その1はこちら:http://mediagong.jp/?p=11071

 

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高橋維新(たかはし・いしん)弁護士、コラム二スト。1987年、東京生まれ。2006年、東京大学法学部入学。2010年より「マヒ郎」のペンネームでファミ通町内会へ「ハガキ職人」として投稿を始める。現役ハガキ職人を続けながら、2012年に司法試験合格。2013年、弁護士登録(函館弁護士会)。ファミ通町内会長(第5代)。