<清原グッズ撤去の是非>「清原容疑者の罪状」と「清原選手の記録」は無関係?

社会・メディア

矩子幸平[ライター]
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元プロ野球選手・清原和博容疑者の覚せい剤所持による逮捕を受けて、甲子園球場(兵庫県西宮市)では「甲子園歴史館」で収蔵・展示していた清原容疑者の高校時代のバットなどを撤去したという。
「野球殿堂博物館」(東京都文京区)でも、寄贈されていた清原容疑者のユニフォーム1点とバット3点の計4点の展示を当面取りやめるとした。
歴史館や博物館のようないわゆる「社会教育施設」には、子供たちなども多く訪れるため、その影響と「教育的配慮」から撤去をしたというのが理由であろう。
これは一見すると、適切な措置であるように思える。しかし、この一報を聞き、「なんで?!」と思ってしまった人も少なくないはずだ。教育的配慮だったとしても、「清原グッズの撤去」には「清原をいなかったことにする」ということ以外に、十分な意味があるとは思えないからだ。
確かに、社会教育施設に記録され、展示される「偉人」には、公共の手本になるような「社会的な責務」が求められることがある。そう考えれば、覚せい剤所持による逮捕という汚名は、そんな「社会的な責務」を果たせておらず、展示されるにはふさわしくないともいえる。
しかし、その一方で、そのような「社会的な責務」の有無とは無関係に、清原容疑者の「清原選手」としての記録が消えるわけではない。もちろん、ドーピングや不正行為、八百長などによる不正記録であれば、記録抹消もグッズ撤去も妥当だが、少なくとも、現段階では「清原容疑者の罪状」と「清原選手の記録」は無関係だ。
博物館や美術館あるいは記念館などに記録され、展示される多くの歴史的「偉人」たちには「奇人」が少なくない。結果的に、犯罪に手を染めている「偉人」も少なからずいる。時代の違いはあっても、薬物依存などになっている「偉人」は多い。
特に、ミュージシャンやアーティストなどのクリエイティブ職にある「偉人」たちの薬物乱用などは事例をあげればきりがないぐらいだ。例えば、ビートルズはメンバーによる薬物問題が有名だが、イギリス・ロンドンの「ビートルズ博物館」に教育的配慮を理由にした苦情が来ることはない。
東京都日野市にある「新撰組のふるさと歴史館」は「殺人集団を讃えるような展示をしてはいけない」といった理由で、「殺人経験のない新撰組隊士のみの展示をする」ということはないはずだ。
戦前戦後の昭和文壇を代表する作家・坂口安吾は重度の薬物依存だったが、未だに人気で評価も高い。記念館なども複数設置されている。
「それは歴史(過去)の話だ」という反論もあるかもしれないが、新撰組でもまだ150年前のことだ。48歳で死んだ坂口安吾でさえわずかに60年前。ビートルズに至っては、メンバーがまだ健在だ。
クリエイターに限らず、科学者などの学者業にも薬物依存は多いと言われている。「Nature」(オンライン版・2008年4月9日)の調査によれば、科学者1427人に対して行ったアンケートで、中枢神経刺激薬・覚醒促進剤などを使用していると答えたのは全体の20%であったという。
だからといって違法薬物の利用を肯定はできない。しかし、「罪状」と「それ以外」を即座に混同して、「それ以外」のことも連動させて抹消することが必ずしも正しいとは言えないことも事実だ。「ある病気の特効薬」を開発した科学者が薬物中毒で逮捕されたとしても、病院はその薬は「なかったこと」にはしないはずだ。
対象の表現方法や扱い方に慎重になれば良いだけで、闇雲に「なかったこと」にすることが、教育的な配慮とも思えない。
犯罪に手を染めることは決してあってはならない。もちろん、そのような汚名で逮捕される人物を讃えてもいけないことは間違いない。しかし、だからといって、「野球選手の記録」という別の事実が、機械的に展示から外されるというのはちょっと話が違うのではないか。
展示や記録は、必ずしも「讃えるため」だけになされるわけではない。むしろ、撤去するぐらいなら、「覚せい剤問題で人生と名誉を棒にふった名選手たち」と題し、その危険性を広く知ってもらうような展示をした方がはるかに教育的だ。
何か問題が発生したら、即座に「撤去=なかったこと」にする我が国の硬直したコンプライアンス意識。もちろん、慎重になることも大切だが、まるで機械のように過敏に反応するだけのあり方についても、あらためて考えるべきであるように思う。
 
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