<ろくでなし子容疑者逮捕>芸術家を「自称芸術家」にすることで怪しさを増幅させる警察の印象操作に疑問

社会・メディア

榛葉健[ テレビプロデューサー/ドキュメンタリー映画監督]

 
自身の女性器の3Dデータをネットで配布したとして逮捕された、「ろくでなし子」容疑者。
各メディアの記事は彼女の肩書きを「自称芸術家」としているが、芸術家はそもそも自分が芸術家だと思えば“自称”するもので、運転免許のように他人や第三者が認めるようなものではない。しかもその創作活動で一定の収入を得ているなら、余計に「自称」という呼び方には無理が生じる。
それにも拘らず「自称芸術家」という呼び方を全メディアがしているのは、逮捕時に警察が発表した情報をそのまま受け売りしているからだ。ここで浮かぶのが、記者たちが「警察の印象操作にはめられているのではないか?」あるいは「片棒を担いでいるのではないか?」という疑いだ。
つまり、「芸術家の、ろくでなし子」というより「自称芸術家の、ろくでなし子」と言った方が、怪しいイメージがつきまとって、今後「わいせつ性」を争う裁判で有利になると警察が考えたのが、容易に想像できるのだ。
筆者はろくでなし子さんの創作活動について、芸術的に共鳴する感覚は全く無い。ただ、彼女の行為がわいせつに当たるかどうかは、かなり微妙だと考える。
今回のデータ配布に比べて、男性器の模造品を堂々と販売している“怪しい店”や製造メーカーは、もっと悪質だということになりはしないか。あるいは、巨大な男根を模した神輿が町を練り歩く川崎市の「かなまら祭り」をはじめ、各地の神社で古くから行われている「男根祭」もわいせつとなる可能性がある。
逆に写真家・篠山紀信さんは、自身の写真集を「芸術だ」と言い切って、ヘアヌードのわいせつ性を咎められることはなかった。それだけ「わいせつ」かどうかを判別するのは、とても難しいことだ。
そこで「自称芸術家」という不思議な呼び方が出てくる。「自称」という一言をつけることで、見事なほどに“怪しさ”が増幅するではないか。そんな小手先のテクニックで世論の風向きを味方につけようとする、警察の思惑が透けて見えてくる。
この逮捕記事を書いた記者たちに問いたい。自分の書いた記事が、情報操作に加担してはいなか? この女性の行動が一見奇抜に見えるだけに、好奇なまなざしで安易に記事を書いていないか、自らを点検する必要がある。
繰り返すが、小生はろくでなし子さんの表現活動にはやはり共感はできない。
私の芸術観とは相容れないからだ。でも、表現物を芸術と感じるかどうかは、人それぞれだということも知っている。「自称芸術家」などという珍奇な肩書きは、彼女自身が「『自称芸術家』です」と名乗らない限り、存在しないだろう。
「“自称”芸術家」
やっぱりこっけいだ。