<バックステージ情報満載!の舞台・演劇評>舞台『カッコーの巣の上で』小栗旬の挑発的演技が抜群

映画・舞台・音楽

熊谷信也[新赤坂BLITZ初代支配人]

 
小栗旬がいい。過去の舞台を見た中で一番良いときたもんです。
残念ながら「ムサシ」を見たときも「時計仕掛けのオレンジ」を見たときも「偶然の音楽」を見たときも感じなかったのに、今回は、とてもいい。
たぶん、子供の時分から、そこそこ、よくできた級長肌で、かなり人の良いほうだと思うのだが、それが舞台を邪魔してしまうというか。たいそう大人でたいそう男前の演出家・河原雅彦氏にも、たいそう大人でたいそう男前の役者・古田新太にもあって、小栗旬にないもの。(あくまでイメージですよ。本当のことは知りませんので)ふてぶてしさというか、いい加減さというか、実はこの男どうしようもない、いい加減な奴なのに「よくもまあ、そんな台詞を言えたもんだよ」的な。観客を一度は図々しく裏切る野蛮さというか。
そんな、まがまがしさをどこかで私は小栗旬に期待していたのだ。期待していたからこそ見たかったのだ。
ジャンポール・ベルモントの酒浸りのパンチドランカー顔に、もうふたつゲンコツを入れるような。なぐられた後にしか真実は見えない、100回殴られて、やっと本当の心の痛みがわかるような。天才漫画家、土田世紀を墓石から掘り起こすような。「酒と女は二合まで」と的外れの小芝居を打つような、そんな演技が身体の奥底から無意識で、にじみ出てこなければいけない。
本物の悪人にそんなことなど期待しない、小栗旬だから期待したいのだ。ワイン好きの後輩に「高級ワインの定義を教えてくれ?」と頼んだとき、彼は少しだけ悩んでこう答えた。「ゆっくりと少量を飲んでワインがのどを通ったとき、単純ではない味、簡単に表現しようとすればするほどそれを拒む「複雑」な味」
そうだ、素晴らしい役者とはそのような複雑な存在に他ならないだろう。
前回の舞台「時計仕掛けのオレンジ」でも、それはなかなか見つけられなかった。しかし、今回の「カッコー」にはそれがある。演出家はプログラムにこう書いている。
『時計仕掛けは~「突き抜け過ぎにも、たいがいにせい」傍弱無人な役作り、生バンドのパンキッシュな迫力~終始、得体の知れないデタラメを湯水のように観客席に放出した挙げ句、「で、なにか?」と爽快な笑顔でうそぶき幕を閉じるそんな挑発的な舞台だった』と、そこに辿り着くには、男の得体のしれない無限の繰り返される根源的なエネルギーが内在していないと単なる形式だけをなぞることになる。
映画、テレビドラマ、映像では、カットバックとUPと編集で芝居を再構築できるが、舞台ではそうはいかない。舞台は、その術を拒絶する。舞台の上には映像をUPにしてくれるディレクターも編集オペレーターもいない。
観客は板の上に立った裸の存在に対するだけ。役者の存在感と演技力にすがるだけだ。それが舞台を見るということ。素晴らしい役者の芝居を見たとき、自分の客席が一階後方でも、二階後方でも、見づらくても、我々の脳は勝手に映像を補正してくれる。
二階後方席から見ているときでも、素晴らしい舞台役者のその顔をUPにしてくれる。どんどん引き込まれるとき我々の脳は見たいように絵を補正してくれる。映画館で運悪く一番前の席しかなくて、そこに座って人気映画を見たときのことを思い出して欲しい。
映画自体が面白ければ首を直角に持ち上げて、歪んだ映像しか見てもいないのに、私は文句の一つも言わない。映画がつまらないときだけ、席が良くない、首が痛いとなる。おもしろいとき、ドラマのおもしろさにどんどん、のめり込めばのめり込むほど脳は様々に映像を補正してくれる。
こういう言い方も出来る、舞台は観客の我々がその舞台の映像ディレクターでもあり、編集オペレーターでもあると。舞台は観客の能力も借りながら進行していくものだ。
小栗旬はそうした意味で大きく成長した。小栗旬は「カッコーの巣の上で」で変わった。
特に演出家・河原雅彦、共演者の神野三鈴が大きかったかなと思う。手を抜かないキャスト、プロデューサー、スタッフに支えられたのかもしれない。知るよしもないが奥方の存在、子供の出現が彼をさらに「複雑」な役者にしたのかもしれない。そうだ、この際、「ルパン三世」も見に行こう。