<パソコン未所有と貧困は無関係>NHKが描く「貧困女子高生」のリアリティの低さ

社会・メディア

藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]

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8月18日にNHKで放送された報道番組「NHKニュース7」での特集「子どもの貧困」。同番組で紹介された進学を断念した「貧困女子高生」。一人一台が当然のように思われているパソコンさえ用意できず、「(本体は買えないけど)キーボードだけ」を買い与えられたという中学生時代のエピソードは強いインパクトを残した。

ドラマに出てくるような貧困状態が、日本にも存在している現実を紹介する・・・はずだったNHKの同番組。しかし、当該女子高生のTwitterが特定され、その過去のポスティングが明らかにされると、一転、いわゆる「貧困」とは思えない消費生活が指摘され、番組の虚偽的内容に非難が集中した。

騒動が発生して以降、「貧困女子高生」を批判する側も、擁護する側も「彼女は本当に貧困であるのか、そうではないのか」といった議論ばかりが目につく。「貧困ではない=捏造」、「貧困だ=捏造ではない」というロジックだ。

この騒動に対し、参議院議員・片山さつき氏までがNHKに説明を求め、その回答として22日に次のようなツイートをした。

【本日NHKから、18日7時のニュース子どもの貧困関連報道について説明をお聞きしました。NHKの公表ご了解の点は「本件を貧困の典型例として取り上げたのではなく、経済的理由で進学を諦めなくてはいけないということを女子高生本人が実名と顔を出して語ったことが伝えたかった。」だそうです。】@katayama_s

しかし、今回の騒動には、このような「捏造の有無」「演出の是非」の議論よりももっと根深い病巣が垣間見れる。今回の騒動が示す問題の本質は、「貧困女子高生」の貧困レベルと番組の虚偽性の有無を関連付ける部分にはないように思うからだ。嫌な話だが、テレビの捏造など、演出の程度問題を含め、NHKに限らず「よくある話」だろう。

【参考】炎上ブーム時代のテレビ作り『だからデザイナーは炎上する』

では何が問題の本質なのかと言えば、番組を制作したNHKが、公共放送という看板で運営しながらも、報道番組とは言い難い客観性の乏しい「前提ありき」の主観的なストーリーを組み、報道番組としてお茶の間に届けているという「コトの重大さ」に気がついていない、と思える点だ。

それは、片山氏へのNHK側からの返答からも見て取れる。あくまでも、「貧困ではない=捏造」「貧困だ=捏造ではない」のロジックに基づいている。これではネット民たちの議論と変わらない。

「前提」が一般国民の感覚や日本の現実を反映したものであれば良いが、残念ながらそうではない。筆者には、NHKの番組制作者たちの現実離れした感覚と、現状把握・分析能力の低さこそに、問題の本質があるように思える。

例えば、「パソコン未所有エピソード」はその象徴だ。

「(誰でもが持っているはずの)パソコンを持っていない→貧困」のように描かれ、「子どもの貧困」ぶりが強く印象づけられている。しかし、冷静に考えてみると、「パソコンの有無」と貧困のレベルは必ずしもイコールではない。

番組では、「パソコンすら持っていない→貧困」というステレオタイプなイメージで貧困が描かれる。しかし、それが現実の貧困を象徴できているわけでも、反映しているわけでもないことはすぐにわかる。

この「ステレオタイプな貧困のイメージ」とは、言い換えれば「NHK(の制作者)が思い込んでいる貧困のイメージ」に過ぎないからだ。その上、番組自体に結論はなく、ただ「主人公である貧困女子高生」の窮乏メッセージが流され、それが印象づけられるだけという内容である。報道番組的な検証性や客観性は「ほぼない」といっても良い。

もちろん、NHKが答えるように、「経済的理由で進学を諦めなくてはいけないということを女子高生本人が実名と顔を出して語ったことが伝えたかった」という主張それ自体は理解できる。テレビに顔を出して発言した「貧困女子高生」の勇気は評価したいところだが、その一人の発言だけで、「子どもの貧困」の「ある一定の方向」に強く印象付ける手法は、NHKによる印象操作を疑われてもしかたがない。新橋の駅前で、ほろ酔い加減もサラリーマン数名を取材した内容を「世論」として公表するようなものだ。

NHK(や制作者)が持つ個人的な「貧困のイメージ」が、現実の貧困や反映していないのは当然だ。しかし、そうならないように、現実を可能な限り客観的に描き、伝えるために、報道番組は存在しているはずだ。そのために報道には十分な取材や検証が求められている。

【参考】<NHK貧困女子高生で炎上>物語ありきで作られた「ニュース」などない

「本件を貧困の典型例として取り上げたのではなく」というNHKの釈明も、後付けでしかない。報道なのだからそのように明記すべきか、それがあくまでも「参考のひとつ」であることを明示しておけば、発生しなかったかもしれない騒動なのだ。

「内閣府の消費動向調査」(2016)によれば、「貧困女子高生」が中学生であった2012年頃のパソコン普及率は67.0%。世代別では、29歳以下が76.4%である。そして若者たちのパソコン所有率は、近年、大きく減少傾向にある。この数値が多いか少ないかは受け取り方によって異なるだろうが、少なくとも「2割以上の若者たちはパソコンを所有していない」という事実がある。

筆者は大学の情報系学部に勤務しているが、そこにもパソコンを私的に所有していない学生はいる。家族で共用している場合でも、親が仕事などで利用することがメインであり、頻繁に利用することもなく「必要不可欠なモノ」にもなりえていない場合は少なくない。

若者たちのパソコン未所有の要因と経済的事情には大きな相関関係はないというのが現実であるように思う。パソコンの有無やパソコンのリテラシー能力と家庭の経済状態は、無関係とは言えないまでも、それ以外の要因の方が現在でははるかに大きいからだ。家庭や学生本人たちのパソコンへの理解や関心、認識の方が、「パソコン所有の有無」には大きな影響を及ぼしているはずだ。

パソコン未所有の若者たちを集めてインタビューをしてみれば、「貧困だから持っていない」という人よりも、「使わないから/わざわざ買う必要がないから持っていない」という人の方が多いだろう。それは「テレビ未所有」の理屈と同じだ。

「自分たちにとって重要度が低いから購入していない」のだから、お金持ちの家庭の子どもでも、パソコンを私的に持っていない(持っていても全く利用しない)という人はたくさんいる。

若者にとってのパソコンの最大のニーズであるゲームやインターネット動画の視聴でさえ、近年、急速にスマートフォンに移行しているため、パソコンの「必要率」はさらに下がっている。スマホを使いこなし、驚異的な速さで文字入力をしている学生が、授業では高齢者向けのパソコン教室で見かけるような操作をしている姿を見ることも、決して珍しくない。

【参考】<印象操作をするテレビ報道>メディアは「事実」を重んじなければ信用されない

パソコンを持っていなくても、パソコンでできることの多くが、スマートフォンでできてしまうため、パソコンを所有する必然性は低い。パソコンに触れる前に、スマホを所有する世代が今の若者たちだ。

学校の教員が、生徒全員パソコンを私的に持っており、十分に習熟しているとを前提に、専門用語や使い方の説明をせずに授業を進めている可能性もあろうが、それはまた別の問題である。その教員の授業方法の問題だからである。教員の質、授業の方法として改善すべき問題だ。

経済的事情で、十分にコンピュータ環境を整備できない家庭もあるだろうが、それは「貧困で鉛筆が買えない」「貧困で給食費が払えない」と同レベルのものではないはずだ。そもそも、パソコンの利用環境の確保は、今日、それほど難しくはない。図書館や公民館などの公共施設でいくらでも利用することはできる。少なくとも買うことができないからといって、「キーボードだけを購入する」などという無駄をする必要はない。

学校の授業で用いる機器を私的に持っていないことを「貧困エピソード」にすること自体が現実離れしていることに、NHKや制作者はなぜ気づかないのか、理解に苦しむ。顕微鏡や試験管やガスバーナーなどを持っている中学生などほとんどいないのと同様だ。

明らかに演出や編集に作り手の一方的な先入観や主観的主張が入り込んでいるわけだ。その意味では、自分の経験や貧困感覚を素直に話しただけの「貧困女子高生」は、番組制作者の主観的な意図に利用された結果となり、 「SEALDsメンバー」にも似た同情を禁じえない。

騒動の発生以降、「番組内の貧困女子高生は貧困か? それとも捏造か?」といった、実はどうでも良いことばかりに注目が集まっているが、それは問題の本質を失わせる。たまたま今回は「パソコンの有無と貧困」を安易に結びつける演出(しかも、貧困の象徴のように)であったが、これはどんなテーマ・内容であっても起きうることだ。

「今どきパソコンを持っていないなんて、なんて貧乏なんだ!」という制作者の一方的な思い込みで作られた番組であることは明白だが、その先入観になんら疑問を持っていないのだたすれば、公共放送であるNHKならびに制作者たちの客観性や一般的な感覚の乏しさに驚かされるばかりだ。これではNHK総合職の「平均年収1624万円」を揶揄されても仕方がない。

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