放送作家が語る『ヴォードヴィリアン、ビートたけし論』

テレビ

高橋秀樹[放送作家]
2013年10月15日

ビートたけしは、“ひとりがおもしろい“稀有な芸人である。今は、日本でひとりしかいないと言ってもよいだろう。からんで面白いことはもちろんあるが、それよりひとりでやっている時が最もおもしろい。例えば明石家さんまとからんでいても、おもしろいのは、さんまを無視してやっているたけしなのである。
昔は(昭和50年代まではとしておこう)“ひとりでおもしろい人”が何人か居た。由利徹の「瞼の母」は、手拭いを使ってお上さんが針仕事をする芸だ。東八郎は、トリオ・ザ・スカイラインのボケ役であったが「♫頑張れ、強いぞ、僕らのなまか〜」と歌う姿は“ひとりでおもしろい”の典型である。
坂上二郎はコント55号で萩本欽一という「異常な人」から、むちゃくちゃにされる「普通の人」だが、ツっこまれて困り果ててごまかす姿は“ひとりでおもしろい”萩本欽一は坂上と組む前は舞台にひとりで出てきて、お櫃にはいった飯を沢庵をおかずに食い続けるだけで笑いがとれた。渥美清もそうだ。
山田洋次と朝間義隆が書いた脚本をあくまでも守りながら、その設定の中で、おいちゃん役の森川信とアドリブギャグの応戦をする。寅さんは障子戸に寄りかかろうとして、縁側を通り越して庭までこけてしまう。おいちゃんは勝負に負けて引き下がる。これは関係性の芸というより面白いことのやり合いだから、“ひとりでおもしろい”ことになる。
こうして概観してみると“ひとりでおもしろい”人たちは、みな、ビートたけしを含めて浅草の軽演劇の血をひいている。軽演劇はとりあえず、ストリップの幕間で演じた笑いと理解してもらえばいいだろう。しゃべりではストリップを見に来たお客さんにふり向いてもらえない。だから動いた。動くことが笑いにつながり、“ひとりでおもしろい”芸をつくり上げて言った。
動く芸で、“ひとりでおもしろい”笑いをつくるといえば、アメリカのエンターティナーの世界で言えば、ヴォードヴィリアンたちである。バスター・キートンもチャールズ・チャップリンも、旅芸人として各地の劇場(立派なものではなく、いわゆる小屋である)に出演して動いて笑いをとった。
動いて笑いを取ることを体技で笑いを取るという。文字どおり体を動かす技だ。その動きは劇場の袖の柱を走って登るような大きくな者から、顔の筋肉を動かしただけで笑いを取る小さなものまで様々である。
こうした血を最も色濃くひいているのがビートたけしなのである。“ひとりでおもしろい”特徴を遺憾なく発揮しているのがフジテレビの長時間テレビの中でやる花火師、火薬田ドン役を演じるたけしである。余計なことをせずたけしだけを追う、これは分かった演出家がやっているからこそできるのである。
たけしのコント番組をやったことがある。誰かが書いてきたつぎのコントをボツにした。

課員「課長ってヘビースモーカーなんですね」
たけしの課長「(蛇の着ぐるみを着てデスクでタバコを吸っている)」

おそらく僕でなくてもボツにするだろう。ところがこのコントは実はたけし本人の案だったのである。なんとか取り繕って次週の収録の時に蛇の着ぐるみを用意した。そして収録を始めた。すぐに僕は自らの不明を恥じた。
「ヘビースモーカーですね」と、声をかけられた蛇のたけし課長の姿はなんとも哀れで笑わずにはいられない。ペーソスさえ漂ってくる。“ひとりでおもしろい”。オチは蛇の姿をしてタバコを吸っている「こと」(現象)ではなくて、蛇の姿をして煙草をすっている「たけしの姿」(状況)だったのである。
ところで、このビートたけしは“ひとりでおもしろい”という特性を今のテレビはきちんと実現しているだろうか。交通事故以来、ビートたけしは滑舌が悪くなっていて、意識してたけしさんの声を録ろうとしないと笑いのポイントが聞こえない時がある。
音声の収録に特別の配慮をするか、こういうしゃべりで笑いを取る仕事からは解放してあげるのが演出家の務めである。「やめましょう」と。フリップをめくってしゃべる段取りはほかのタレントに任せればいいのだ。
しかし、ビートたけしが喋り始めると、コメンテーターと呼ばれる職業の人たちや、ひな壇芸人と呼ばれる織業の人たちは、聞こえなくてもつまらなくても、「笑え」という印のところに来ると、お追従で笑っている。これは、世論を(世間様を、テレビを観ている人々を)反映していない行為だ。
ビートたけしのしゃべりに面白くないときは超然として外に立ち、決して笑わない共演者を僕はひとり知っているが、この人は大物になるかもしれない。それが正しい行動だからである。