岡江久美子さんと『はなまるマーケット』の想い出

高橋秀樹[放送作家/発達障害研究者]

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あんなに芸能人らしくない芸能人に出会ったのは初めてでした。岡江久美子さんのことです。あの時の岡江さんは赤坂の本屋にいました。しかし、声を掛けられるまで、僕は、そこに岡江さんがいるとは気づきませんでした。岡江さんだと分かった途端、周囲がぱっと明るくなったような気がしました。見事に芸能人のオーラを消し、人混みに紛れることが出来る、それが女優岡江久美子さんでした。

1991年、TBSは、坂本堤弁護士がオウム真理教を批判するインタビュー映像を教団幹部に見せた「オウムビデオ問題」によって、すべてのワイドショーを打ち切りにすることが求められていました。チーフプロデューサーの石川眞実(まこと)さん、プロデューサーの吉田映一郎さん、高綱康裕さん、デスクの山田淳子さんのもとに、集められた放送作家は、腰山一生さん(故人)と僕。

石川さんは特に意識していなかったようですが、僕は、朝の時間帯に、ワイドショー以外の番組をつくることが命題であると固く思っていました。そこで僕たちは石川さんが既に決めていたふたりの司会者の名前を告げられました。岡江久美子さんと薬丸裕英さんです。僕は初めて仕事をするふたりでしたが、石川さんは何らかの勝算を持っているようでした。

石川さんはこう切り出しました。「ワイドショーっぽいっていうのはどういうことですか」僕はこう答えたと思います。「リポーターがいること、リポーターは、なにも知らないのに、ディレクターの操り人形になっていること」それで高綱さんの決めたタイトル『はなまるマーケット』の取材者は「はなまるアナ」という名になり、はなまるアナはディレクターと一緒に資料調べから参加する方式に決まりました。岡江さんは、はなまるアナに全幅の信頼をおいてくれました。

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それから、僕は、それまで何回か構成したことのある、ワイドショーの司会者に抱いていた不信感を口にしました。「司会の人は毎日やってきますが、全く何を話すか考えてきません。何も考えないで仕事に臨む人を僕は信用できません。番組の冒頭に2分、時間を取ってはどうでしょうか。そこでは岡江さんと薬丸さんに、日々の身辺雑記を話してもらいます。台本のないフリートークです。毎日何を話すか考えてきてもらうのです」

放送作家が台本を書かないという提案。しかし、集まった、石川さん、吉田さん、山田さん、腰山さん、意外にも、全員が賛成してくれたのです。

うまく行くかどうかは分からないという不安は、第一回目の放送で氷解しました。岡江さんと薬丸さんは見事にフリーで夫婦漫才を繰り広げてくれたのです。番組は成功するかも知れないと思いました。回が進むにつれて冒頭のフリートークの時間はどんどん長くなっていきました。なにしろ、このフリートークのあいだにみるみる分刻みの視聴率が上がっていくのです。岡江さんは芸能人でありながら、きちんと生活をしている生活人でもあったのです。薬丸さんもまた同じ。僕たちは得がたい司会者を迎えることが出来たのです。

スタッフと出演者が、参加する芋煮会が多摩川で行われました。岡江さんもいらしたこの芋煮会に、僕は妻とふたりの息子を連れて参加しました。妻が岡江さんに挨拶しました。すると、岡江さんは妻にこう尋ねたのです。「後妻さんですか」僕はひっくり返りそうになりました。確かに僕は見た目がじいさんです。余りの意外な質問に「いや、その」と口ごもっていると岡江さんがこう続けました「どっちの連れ子なの?」。ぼくは本当に河原にひっくりかえりました。思ったことは何でも口にする。それがちっとも嫌みではない、それが岡江さんです。

下北沢の焼き肉屋さんで岡江さん一家と偶然鉢合わせしたことがあります。隣のテーブルでした。ご主人の大和田獏さん、お嬢さんの美帆さんは、匂い立つようなティーンエイジャーだったと記憶しています。僕がもぞもぞと挨拶をしていると、連れてきた小学一年生の次男が突然立ち上がって大声でこう言ったのです。

「〇〇小学校一年一組、高橋〇〇です、趣味は特撮です」

店中の人が振り向きました。妻は慌てて非礼をわびます。すると岡江さんは笑って次男に、こう言ったのです。

「上手に挨拶できたわね。えらいえらい」

次男は褒められてニコニコです。いまは、もう20代も後半になった次男は一度しかあったことのない岡江さんの死を知って涙を流しています。

TBSにおねがいがあります。『はなまるマーケット』のどの回でもいいですから、編集しないでまるまる一本、同じ時間帯に流してくれませんか。

 

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