爆問・太田「当時のサブカルチャー」で小山田擁護は無理筋

藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]

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凄惨ないじめの加害者であった小山田圭吾が東京五輪開会式音楽を担当したことに起因する炎上騒動。この件で、爆笑問題・太田光は自身がMCをつとめる「サンデー・ジャポン」(TBS)において、問題の本質を「選んだ側(組織委員会)」にあるとしつつ、激化する小山田への批判について、同情とも論点ずらしとも思える「微妙な擁護」をしたことで、批判が高まっている。

小山田圭吾がサブカルチャー雑誌に自慢げに語った「過去の凄惨ないじめの事実」について、太田は「時代性」をあげた。つまり、そういう表現や言動が許されるという雰囲気が「当時、サブカルチャーの中にあった」という前提から、「その時代の価値観を知りながら評価しないと、なかなか難しいと思う。今の価値観で断罪してしまうことは」と述べた。

90年代サブカルチャーには、今の価値観だけでは判断できない差別的な表現や暴力的な表現も、時代の文化として存在しており、受容され、消費されていたので、小山田はそれに乗っかっただけだ、と言いたいのであろう。「俺たちのネタもひどいですよ、昔やったネタなんてひどい。未熟だったし、残酷だったし」と、自分たちだって同じように90年代サブカルチャーの中で、現在の価値観では許されないようなネタもやってきた、と語った。

もちろん、80年代から90年代にかけてのサブカルチャーには現在の価値観に相容れないもの、卑猥なもの、現在では尊重されなければならない人権意識が希薄であったり、それが悪質な笑いにおきかえらてしまったような事例は多い。もちろん、それが勢いのあるおもしろさを生み出していた、という事実はあった。現在のナイーブすぎる価値観が日本のエンターテインメント全体をシュリンク(萎縮)させているという現実だってある。太田が指摘するように、現在の価値観で、当時のサブカルチャーの善悪を単純に判断することが難しいことなど、言われずとも誰もがわかっている。

いわゆる「コンプライアンス意識の高まり」によって、テレビを中心としたメディア文化が急激につまらなくなった、という事実は誰もが認めることであろう。おそらく、天才的コメディアンである太田であればこそ、それを言いたかったのだろうとは思う。

しかしながら、太田が小山田圭吾への批判を「90年代サブカルチャー」の文脈から擁護しようとする手法はさすがに無理筋であるだけでなく、論点ずらしすら感じる。このあたりに違和感をもった視聴者も多いからこそ、太田への批判が高まっているのではないか。

今回の小山田問題の悪質さは「時代性」では説明ができない、そういったこととは大きく乖離した、別次元の問題であるからだ。小山田圭吾が加担した凄惨ないじめの事実と、それを面白おかしく雑誌に語った醜悪さは、現在でなくても許容されるものではない。小山田のいじめ問題は、80年代、90年代のオリンピックであったとしても、発覚すれば大きな問題になり、進退が問われる批判の対象になったはずだ。

なぜなら、爆笑問題がお笑いコンビとして、90年代に、当時のサブカルチャーの文脈では許容された放送禁止用語や非倫理的なネタで暴力的な笑いをとっていた・・・という状況と、凄惨極まるいじめに加担し、それを面白おかしく雑誌に自慢話として吹聴する小山田の悪質性とは、まったく背景も内容も異なるからだ。

オリンピック・パラリンピックは高い公共性が求められる事業である。特に、五輪が差別や暴力などを明確に否定し、克服するための事業であることは、五輪憲章にも謳われている。だからこそ、オリンピック・パラリンピックに関わることは名誉だ(と思われてる)し、権威もある(と思われている)し、その人事には細心の注意が求められるのだ。

五輪憲章「オリンピズムの根本原則」には次のような項目がある。

「 2. オリンピズムの目的は、 人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。」

小山田が加担したと自身が語る凄惨ないじめは、障がいを持つ自分よりも弱い人をターゲットに、人間の尊厳を踏み躙る方法でなされ、成人した後も、自慢げに面白おかしく雑誌に武勇伝として語るという点において、明確にオリンピズムの根本原則に反している。小山田は最もオリンピズムから乖離した「実績」を有する人材といっても過言ではない。

そして何よりも、オリンピック・パラリンピックは、天文学的な予算の「私たちの税金」によって成り立っている。東京五輪に投入された私たちの税金は1兆円にものぼる。これは、東京五輪の最大スポンサーが日本国民ひとりひとりであることを意味する。どんなに大口のスポンサー企業であっても、私たち日本人の税金が負担した額に比べれば微々たるものだ。つまり、究極的には東京五輪の最大の出資者、最大スポンサーは私たち日本国民であり、全国民に五輪に対して発言する権利があるこということでもある。

筆者もスポンサーの一人として、日本国民の尊厳を損なうようなことに巨額の税金を使うことは許せない。いや、個人的には、たとえ無償のボランティアであっても小山田には名前が残るような仕事にはかかわってほしくない。世界中に日本の恥を晒すことになり、まるで戦時中にヒトラーによるプロパガンダイベントとして行われた「ナチス五輪(1936年)」のように負のレガシーとして、オリンピックイヤーのたびに蒸し返される事例になるような気さえする。

これらを踏まえれば、小山田圭吾が犯した罪とは、90年代のサブカルチャーで許容されてきた価値観や時代性とは無関係に非難されてしかるべきものなのだ。

太田光の主張する、文化や表現の時代的な違いを考慮することの重要性はよくわかる。現在の価値観や定規で異なる時代や国の文化にいちゃもんをつけたり、断罪することなどできない。かつては自分たちも過激なネタをやっていた、と太田は言う。しかし、お笑い芸人がネタでどんなに過激なことをやろうが、オリンピズムとは無関係だが、小山田の場合は違う、関係大ありなのだ、ということを忘れてはならない。

今回の小山田圭吾のいじめ問題は、「若気の至りで凄惨ないじめに加担した」という過去だけでなく、それを成人してからも面白おかしくサブカルチャー雑誌に語るという、五輪には到底相応しくない小山田の非人間的なメンタリティに対して起きた批判である。これは論点をずらす以外で、どのような理論、どような立ち位置でも擁護は不可能だ。この問題は小山田自身が考えているよりも、はるかに重篤であり、根深いように思う。

小山田がこれ以上の批判、炎上を避けるためにできることは、五輪音楽担当を辞任し、楽曲の利用を取り下げ、加えて目に見える形での贖罪を示す行動に今すぐ移ること以外にはない。もちろん、今更謝って許されることではないだけに、しばらくは音楽活動はもとより、社会人としての生活もままならなくなるだろう。

しかしそれは、自分がそれほどまでに罪深いことをしていたのだ、ということを理解するための人生最後のチャンスだと小山田には思ってほしいものだ。

 

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