NHK「おかえりモネ」をフェミニズム批評とジェンダー批評の視座から見る。

高橋秀樹[放送作家/発達障害研究者]

***

NHKの連続テレビ小説『おかえりモネ』の概要は次のようなものである。

(以下、公式HPから抜粋・要約)

永浦百音(清原果耶)は、宮城県気仙沼湾沖の自然豊かな島で、家族(父・永浦耕治・内野聖陽 母・永浦亜哉子・鈴木京香 妹・永浦未知・蒔田彩珠 祖父・永浦龍己・藤竜也 故人の祖母・語り・永浦雅代・竹下景子)と友達に囲まれて青春時代を謳歌していた。

百音は高校卒業後は島を出たい一心で、気仙沼を離れ、内陸の登米市へ移り住む。祖父の知り合いで登米の山主である新田サヤカ(夏木マリ)の元で森林組合の職員となった。

そんな百音に、ある日、転機が訪れた。東京から、人気のお天気キャスター・朝岡覚(西島秀俊)がやって来たのだ。彼と一緒に山を歩く中で、百音は「天気予報は未来を予測できる世界」と教えられた。

深く感銘を受けた百音は一念発起。合格率5%の難関、気象予報士の資格を取ろうと猛勉強をはじめる。勉強が苦手な百音に気象の基礎知識を教えたのは、菅波光太朗(坂口健太郎)。森林組合に併設している診療所の若手医師だ。何度か落第を繰り返し、くじけそうになるが、菅波の熱心な指導もあってついに難関を突破する。

その後、夢を叶えるべく百音は上京。民間の気象予報会社で働きはじめた。個性的な先輩や同僚に鍛えられながら、失敗と成功を繰り返し成長していく。……数年後の2019年。予報士として一人前となった百音は、大型台風が全国の町を直撃するのを目の当たりにする。これまでに得た知識と技術をいかし、何とか故郷の役に立てないかと、家族や友人が待つ気仙沼へと向かう決意をするのであった。

(以上、抜粋・要約)

脚本は安達奈緒子のオリジナル。原作ありの実録物ではないのは素晴らしい。内容は連続テレビ小説の王道「若い女性の成長物語」であるのは、物足りない。が、朝はこういうのがいいという気もする。

さて、なぜこの『おかえりモネ』を<フェミニズム批評>と<ジェンダー批評>の視座から、見てみようと考えたかというと、6月17日の放送で、つぎのようなセリフを耳にしたからである。

イケメン気象予報士として人気の朝岡覚(西島秀俊)が久々に森林組合にやってきたとき、たむろする中年女性が朝岡に「何回見ても男前だっちゃねえ」と声をかけるのである。NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』では、鶴瓶が町で、出会った女性に「きれいな人やねえ」との感想を連発するのが批判され、最近は言わなくなった(筆者の実感)という事情もある。

ならば「男前だっちゃねえ」はいいのか、ノンフィクションではないからいいのか、男にかける声だからOKなのか。それともだめなのか、考えてみようと思ったのである。どうせなら、このことを、女性に「きれいな人やねえ」というのはだめだという立場の<フェミニズム批評>や<ジェンダー批評>の視座から、見てみるのは面白いと思ったのだ。

筆者はフェミニストではないから、あくまでのその立場に立ったらという設定の仮託。フェミニズム批評についてはある程度勉強したが、間違っている点があるかもしれない。さらに<ジェンダー批評>と<フェミニズム批評>は違う。正反対と言っても良い部分もあるという複雑さ。だから、専門のフェミニストの方の間違いの訂正を希望している。

皮相だけで言えば、中年の女性が言った「相変わらず男前だっちゃねえ」はフェミニズム的には別に問題はないだろう。女性の行動・言動だからである。「女の腐ったの」「男のくせに」とは明らかに違う。だが、フェミニズム批評が「性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現を目的とする思想」だと考えるとどうだろう。「(文学や映像)作品の歪曲された女性像」を排除するという意味では、男性を「男前」かどうかで批評する女性の態度、そういう女性がよく存在するという作品上の描き方はNGとなるだろう。

ところで、その観点から考えると、番組のキャステイングが皆、美男美女であることも批判の対象となるのかもしれない。女性陣では姉妹の清原果耶と蒔田彩珠、母に鈴木京香、祖母に竹下景子。鈴木京香と竹下景子の血縁ならそりゃ姉妹は2人共かわいいけど、そんな家族はあるか。鈴木京香だってまだまだ恋愛ドラマのヒロインになれる美貌だし、こんな奥さん羨ましい。

・・・と筆者は思ってしまい、フェミニストの批判を受けるのは必定になってしまうが、ドラマが視聴者にこんなふうに男に思わせるのはフェミニズム に反するのではないのか。百音の友人たちは恒松祐里と永瀬廉(King & Prince)。田舎でこの3人は目立ったろうなあ。今どきの若者基準でいうと、高校のカースト上位だったろうが、これでフェミニストはいいのか。

[参考]<ジェンダー平等?>女性たちは「報道ステーション」CMのどこに頭にきたのか

東京の気象キャスターに神野マリアンナ莉子(今田美桜)は、報道キャスターを目指す若手の気象予報士である。ここにお天気お姉さんは美人でなければ、という思想は隠れていはしまいか。元報道キャスター、社会部気象班デスクに高村沙都子(高岡早紀)。

実際のテレビ局では報道キャスター上がりで使いにくくなったある程度の年齢の女性で、なにか役職につけなければならなくなったとき(本来の報道の主流ではないが、たくさん部下のいる)「気象班デスクでもやらせておけ」というのは実にリアル。だが、フェミニズム的には、もっと『ガラスの天井』(資質・実績があっても女性を職位以上には昇進させようとしない組織内の障壁)を描かなくてよいのか。

清原果耶と医師の坂口健太郎は、見る人が「早く恋人になっちゃえよ」と思う、『逃げるは恥だが役に立つ』(TBS)が、世に広めた今流行のいわゆるムズキュンの関係。これはフェミニズム的にはどう総括されるのか。

で、<ジェンダー批評>である。

英文学者・小林富久子(1998)によれば、「昨今 日本の研究者たちの間で、 もはや女性学あるいは フェミニズム批評の時代は去り、今やジェンダー学 、ジェンダー批評の時代だといったことが言われがちなことである。 こうした言いまわしは、 もともとジェンダーが女性学の中で発見された概念であることに余りにも無自覚と言わなねばならない。 ジェンダーを切り口とすれば、すべてがフェミニズム批評 として成り立つわけではなく、女性解放の視点を基盤にしてこそフェミニズム批評と呼びうるのであり、とりわけわが国のように、男女の非対称的力関係が根強く、その是正の必要が明らかな時、ジェンダー批評をフェミニズム批評に取って代らせるといった短絡的な姿勢自体、反動的ととられても致し方ないだろう」と言う。

これを前提に考えてもジェンダーは難しいのである。何しろジェンダーは多様すぎるほど多様だ。

「LGBT」という言い方はもう古く「LGBTQ(+)」「LGBTQIA(+)」「LGBTs」のような単語が使われるようになったくらいで、その多種多様さは気が遠くなるほどである。

L(レズビアン):性自認が女性の同性愛者

G(ゲイ):性自認が男性の同性愛者

B(バイセクシュアル):男性・女性の両方を愛することができる人

T(トランスジェンダー):主に身体的な性別と性自認が一致しない人

(ここまでで日本人の8.9%。電通調べ)の他に、1. クエスチョニング (Questioning)、2. クィア (Queer)、3. インターセックス (Inter-sex)、4. アセクシュアル (Asexual)、5. Xジェンダー、6. パンセクシュアル (Pansexual)、7.アンドロセクシュアル/ジニセクシュアル、8. アライ (Ally)など、まだまだあるのである。アメリカ人で、性自認が女性だったので性転換手術を行って女性の身体になった人が、なってみたら、女性を愛するようになってしまった人物を筆者は取材したことがあるが、これなどわかりやすい方だと思えるくらいである。

「LGBTQIA(+)」を第3の性とは捉えずジェンダーと複合的に捉えることが必要だと、筆者は思うのだ。と、ここまで書いてそうなると、複雑すぎて『おかえりモネ』をジェンダー批評するのは筆者の能力の範疇にはないことに気づいたのである。「人の容貌、容姿で笑いを取る時代は終わった」くらいの認識が筆者の限度であった。

最後に重ねて申しますが、フェミニズム・ジェアンダーの専門家の方、もし間違いがあれば訂正をお願いします。(参考文献:小林 富久子 ジェンダー概念はフェミニズム文学批評に何をもたらしたか? 学術の動向  公益財団法人日本学術協力財団)

 

【あわせて読みたい】