<人間たちをドキュメンタリーで描く>小川紳介監督の「映画を作る態度」「覚悟」「美学」


原一男[ドキュメンタリー映画監督]

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小川プロの、というより小川紳介監督の「作品を作る態度」「覚悟」「美学」といったことに、もう少し触れておきたい。

山形での2大長編の内容をざっと見ていくと「ニッポン国古屋敷村」では、前半、稲の凶作の原因を探るサスペンスフルで科学映画的な展開。一転、後半は、村人たちの人生と生活とを描いていく。炭焼き、養蚕などの労働の本質についての微に入り細を穿った老人たちの語り。

「1000年刻みの日時計」では、村の昔話=民話、道祖神の発掘から縄文遺跡の発掘へと広がり、200年以上も前におきた一揆の、村人たち総出演による再現劇。そしてラスト、やはり村人全員のマーチ。

そう、ここには、現実のしがらみからくる村人同士の憎しみあい、いがみ合いなどの負の部分を描くシーンは微塵もない。そんなものは、まるで取るに足らないものだとサラリと捨てて、そこにあるのは、時空を自在に往来してのファンタジー感であったり、祝祭的な身振りなのだ。実に痛快ではないか!

ここまで考えてきて、ようやく私にも理解できてくるような気がしてくる。「ぼくたちは村の人たちに撮らせてもらってるんですね」という言葉の示す本意が。撮らせてもらってる、とは、村人の存在によって想像力を触発され、思い切り羽ばたかせて、ユートピア的イマジネーションを解き放って、時空を自在に遊んでる作家=小川紳介本人、を受け入れてもらってる、まさにそういうことなのだと思う。

ニッポンのドキュメンタリーの態度は“共感”である、と書いたが、多くが、その市民運動の持つ理念に共鳴するとか、生活者が様々な“公害”の被害者であることの姿に、キツイ言い方だが、同情するとかの作品もまた多いのが実情だが、小川紳介のレベルの深みの域に達しての共感は、ニッポンドキュメンタリーの歴史においても希有だと思う。

と、ここまで書いてきて、さて、では私の場合はどうなんだろうか? と問うてみる。

私は未だに、この現実世界のしがらみの中でいがみ合い、憎しみ合い、足を引っ張り合い、だけどちょっぴり愛し合い、ちっちゃな幸せ感だけで喜んでいる、ミスだらけの人生を送っていく愚かな人間たちが好きなのではないだろうか?

そして、そんな人間たちをドキュメンタリーで描くことに夢中になっているんだろうな。

 

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原一男

原一男(はら・かずお) ドキュメンタリー映画監督。1945年生まれ。疾走プロダクション所属。1987年の映画「ゆきゆきて、神軍」は、ベルリン映画祭カリガリ映画賞、シネマ・デュ・レェール・グランプリなど、数々の賞を総なめ (奥崎謙三は、かつて自らが所属した独立工兵隊第36連隊のウェワク残留隊で、隊長による部下射殺事件があったことを知り、殺害された二人の兵士の親族とともに、処刑に関与したとされる元隊員たちを訪ねて真相を追い求める。) 小説家・井上光晴の晩年5年間を追いかけたドキュメンタリー映画「全身小説家」は、1994年のキネマ旬報ベストテン1位・日本映画監督賞、毎日映画コンクール日本映画大賞。