<政見放送の演出論>小泉元首相にはあって、安倍晋三首相ににはないモノって何?


高橋秀樹[放送作家]

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政見放送は何故、何も訴えて来ないのか? 政党の政見放送は、特に何も訴えて来ない。あったとしても訴えるものが空虚である。訴えるもの自体が響いてこない。

もちろん、これは「訴えるもの」の内容の問題である。そこで、今回は内容のことは、一時、脇において、演出面からこれを考えてみたい。

「この放送は公職選挙法に基づいて、候補者届出政党の政見をそのままお伝えします」

・・・などというアナウンスのもとに始まる政見放送。このアナウンスはなぜ存在するのか? それは「放送局は内容に関して編集など行っておらず、一切責任をおいません」という言い逃れ宣言をしているからである。

だから、演出面でつまらなくても、それは放送局のせいではない。逆に見れば「普段はもっとおもしろいものを作っていますから」という言い訳宣言ともとれる。

政権放送を見ながら、俺ならこう面白く撮るのになあ、と思った演出家はたくさんいるだろう。かくいう言う筆者も『オレたちひょうきん族』の中で、俳優の平田昭彦さんに候補者役を演っていただき、それを歌番組のカメラ割りで撮る、というギャグを演ったことがある。これは斬新で、面白かった。

しかし、実際の政見放送では、そんな撮り方をする訳にはいかないだろう。

ドラマなら、ヘボな役者の下手な芝居をフォローして、気持ちを表現するのに、一番効果があるのは音楽である。リヒャルト・シュトラウス作曲の交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』がかかっているだけで、簡単に感情と世界ができあがる。だが、政見放送の効果音、劇伴(劇中音楽)は、ふざけ過ぎだろうか。もしかしたら、真面目な人の票が離れるかもしれない。

またしてもドラマで考えると、脚本の段階で必ずなければならないのは、見るものを捉えて放さないストーリーと、ストンと腑に落ちる「いいセリフ」だ。

「いいセリフ」とは、誰が言っても一応は訴求力がある、

「ぼくは死にましぇ〜ん」

「事件は会議室で起こっているんじゃない」

の類の言葉である。こういう「いいセリフ」なら、政見放送に導入してもいいだろう。

では、「いいセリフ」は誰が考えるのか。鳩山由紀夫政権の時、劇作家の平田オリザ氏が、ライターとして協力したという話を平田氏自身が書いた本(「総理の原稿――新しい政治の言葉を模索した266日」岩波書店)で読んだ。

しかし、鳩山氏のセリフで思い出すのは「友愛」とか、「最低でも県外」である。「いいセリフ」があまり記憶に残っていないということは、うまく行かなかったのだろう。劇作家ではダメで、やはり政治を深く知る専門のスピーチライターが必要なのだろうか。

この、スピーチライターの素質を自ら持っていた政治家といえば、近くでは小泉純一郎首相だろう。

「構造改革なくして成長なし」

「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろです」

賛否は別にして上手い。筆者が好きな「小泉純一郎のいいセリフ」は、あまり有名ではないが、

「目先のことに鈍感になれ」

である。

この小泉氏、ある種の不良っぽさという、人気者に必要な要素も兼ね備えていた。これは精神分析家の斎藤環氏の説(「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」角川書店)だが、人気がでるのはヤンキー的な要素を持った人なのである。X-Japanが好きというキャラクター作りもみごとだった。

筆者の考えによれば、不良が人気があるのはこういう論理による。

「あのひと不良だけど、根は良い人なのよ」

「根は良い」ということの根拠は別に示さなくていい。「不良は根が良い」ということで、相場が決まっているからである。だが、「不良は根が良い」ということを隠れ蓑にして巨悪をやる人かどうかは見抜かないといけない。

故・ナンシー関さんのフェルミ推定によれば、

「ヤンキー的なものを支持する日本国民5000万人」

であると言う。

 

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